第4章:時の「死角」~町田・大和・横浜での米軍機墜落事故~その2「町田米軍機墜落事故」
世界初の高速鉄道である東海道新幹線が開業し、アジア初の五輪として東京オリンピックが開かれた1964年(昭和39年)。戦後復興の集大成を世界に向けて華々しく披露したその年は、在日米軍の航空機墜落事故が立て続けに発生し、民間人の多くが死傷したという暗い側面も持ち合わせている。
その惨事のひとつ「町田米軍機墜落事故」は、桜の花がほころびる4月、東京の郊外である町田市の市街地で起きた。
市街地の真っ只中で起きた米軍機墜落事故
島嶼部を除けば東京都の最南端となる町田市は、1958年(昭和33年)に南多摩郡鶴川村、町田町、忠生村、堺村の1町3村が合併し、6万人が住む都下9番目の市として誕生した。神奈川県という「海」に突き出た半島のようなカタチをしている町田市だが、東京都との「付け根」に当たる市北部には丘陵地が広がっており、もっぱら南側の神奈川県との交流を中心に東京郊外のベッドタウンとして、また相模原市や横浜市北部を含めた相武地域の中核都市として発展してきた。
小田原と新宿の間を行き来する小田急小田原線と、八王子と横浜方面を結ぶJR横浜線が交差する「町田駅」は、今も昔も市の中心部として賑わいを見せる。市制施行当初は小田急側が「新原町田駅」、JR以前の国鉄側は「原町田駅」と呼ばれ、両駅舎は今よりも離れて建てられていた。そしてこの周辺は、現在に至るまで「原町田」という地名をいただいている。
市ができて6年、「原町田二丁目商店街」は、成長著しい市街地の真っ只中にあった。洋裁店や精肉店、会計事務所や運送事務所、歯医者や派出所、自転車屋や靴屋、家具店や理髪店などが軒を連ねる商店街。買い物客が訪れ、人々が住まうその場所では、おそらくどこにでもあるような人々の日常が営まれていたことだろう。
その出来事は、まさに青天の霹靂だった。
1964年4月5日、日曜日の夕方4時28分頃。定期訓練飛行のため沖縄の嘉手納基地を飛び立った岩国海兵隊基地所属のジェット戦闘機「F-8Uクルセーダー機」が、厚木基地へ着陸しようと町田市上空を旋回中トラブルに見舞われ、この商店街の一角に墜落。平和な光景が一変して地獄絵図と化した。
死者4人、重軽傷者32人の大惨事
墜落現場は原町田駅から約300m、小田急の新原町田駅からも約1kmしか離れていない繁華街ということもあり、夕方の買物客で混雑していた。「キーン」という耳をつんざく音とともに突然「ズシーン」という大地をも裂けるような地響きが立ち、民家4棟が吹き飛び、土砂や機体の破片も半径50m四方にわたって周囲に降りかかり、20数軒の家屋が全半壊した。
さらに飛び散った航空機燃料に引火、付近の家屋に延焼し、黒煙が立ち上った。逃げまどう買い物客、倒壊した建物から救いを求める負傷者の悲鳴と叫び。すぐさま地元の消防団らが救出にあたったが、結果的に死者4人、重傷者9人、軽傷者23人、家屋全半壊(部分壊含む)27件という大惨事となってしまった(町田市刊『昭和39年 米軍機墜落事故災害誌(復刻版)』2~3ページ)。
その1で取り上げた『米軍機墜落事故』(河口栄二著)では、もっとも被害が大きかった吉田精肉店の店主、吉田治の視点で、墜落の瞬間の模様を次のように記している。
午後四時二十八分、治の目の前の畳数枚が、ふわりと宙に浮いたかと思うとあたりは一変して暗闇になり、背中を圧迫され、うつ伏せになった。なんだ、地震か、どうしたんだと懸命に叫び、必死に踠いた。……首をなんとか上に曲げてみると、微かに陽が洩れているのが目に入った。ここはどこだ、力を込めて叫んでみたが、返事はない。────そこは、居間の真下に掘られていた防空壕の跡であった。広さ畳一枚半、深さ二メートルの穴へ治は叩きつけられるようにして放り込まれていたのだった。このことが奇跡的に命を救うことになった。(同書61ページ)
治は防空壕のなかでもがきながら温かなひとの手に触れ、それが妻だと悟った。必死に大声で返事を求めたが反応はなかったという。
事故発生から1時間半、泥だらけになった治は救出された。しかし事故直前に洗濯物を畳んでいたという妻、そしてまだ赤子であった長男は倒壊物の直撃により即死していた。裏の空き地で遊んでいた3歳の長女は無事だったが、店の惣菜売り場で働いていた従業員2人は深い熱傷を負った。
『米軍機墜落事故災害誌』に転載される当時の事故現場の報道写真には、救出・消火活動の模様や破壊された家々、瓦礫の山などが写し出されている。上空からの写真を見ると、この事故が局所的に起こったことがうかがえるのだが、これは墜落したジェット戦闘機が高度6000フィートから60度の角度できりもみ状に地面に突き刺さったこと、さらに着陸寸前で燃料量が少なかったことなどの条件によるとものとみられている。
後に記す「大和米軍機墜落事故」では、厚木基地を飛び立ったばかりの軍用機が墜落、地表を滑り、オーバーランから約1km先まで帯状にわたり被害をもたらした。このような事故が町田、しかも駅前の商店街で起きていたら、被害はさらに酷いものとなっていたであろう。
なお墜落機を操縦していた、飛行時間1300時間の経験を持つR・L・ボーン米海軍大尉はパラシュート脱出を試み、現場から1.4km離れた団地に降下、かすり傷を負っただけで米軍基地の病院に収容された。
エンジンは今もなお地中に
事故後の顛末は『米軍機墜落事故』に詳しい。以下は本書から情報を引いている。
まずは現場での対応だ。発生から30分後にカービン銃を抱えた12人の憲兵が厚木基地から到着、間もなくロープが張られ立ち入り禁止の規制が敷かれた。
本格的な機体回収や倒壊家屋の整理などは翌日から開始され、消防団、自衛隊、機動隊、地元警察に住民が加わり大掛かりな作業となった。軍事機密である機体の残骸回収は徹底して行われたというが、事故原因の究明に不可欠でもあったエンジン部は、衝突の強さから土中20mもの深さに達しており、周囲の家屋の倒壊を誘発しかねないとして作業は打ち切りとなった。エンジンは、事故から50年以上経った今も現場の地中に埋まっている。
翌4月6日の各新聞朝刊は町田米軍機墜落事故の報をトップで伝えた。そして夕刊になると、時のアメリカ大統領リンドン・ジョンソンから日本の池田勇人首相に対して遺憾の意を表明するというメッセージが載せられた。米軍機墜落事故でアメリカ大統領から直接メッセージが寄せられたのは初めてのケースだったことから「異例のメッセージ」と報道された。
くしくもこの夕刊では「ダグラス・マッカーサー死去」というビッグニュースも報じられていた。日本とアメリカの戦後の関係を強くあらわす象徴的な出来事が2つ並んだことになる。
補償交渉と、家主との争い
大切な家族を亡くし家財を失った原町田二丁目商店街の被害者の生活再建は、「補償交渉」と「家主との争い」という2つの問題に直面することになった。
このうち補償については、防衛施設庁の出先機関である東京防衛施設局が窓口となって交渉が行われたというが、本書だけの情報だけによれば、交渉とは名ばかりだったような印象を拭えない。
同局の代理人は、「米軍の承諾をもらうためのテクニックがあるので、交渉の一切を任せて欲しい」(70ページ)と「白紙委任状」の提出を求め、吉田治のみならず全員から提出させていた。ところが最終的な補償額が提示されると、被害者たちの想像よりも低い金額が、しっかりした説明もなしに、一方的に決められたというのである。
この白紙委任状は、当初の説明にあった米軍との折衝テクニックではなく、「低額な補償金で一刻も早く補償問題を解決しようとする担当官の点数稼ぎにあったに相違ない」(76ページ)と、被害者たちは悔しがるのだった。
もうひとつの問題、生活の場を取り戻すための家主との店舗再建交渉はもつれにもつれ、裁判にまで発展した。実は東京防衛施設局との補償交渉の具体的な内容も、この法廷でのやり取りで明らかになったことなのだという。
商店街の店舗があった場所は事故後に更地となっていた。地主の三橋は、従来までの木造長屋をあらため鉄筋コンクリートの住居・店舗を建てようと考えていた。自分の土地とはいえ、市の中心部にまとまった区画ができたのだ。家主のこうした計画も理解できなくはない。
家賃や権利金が高くなるなど危惧した吉田らは、市の仲裁で家主との話し合いを持つも、どうも三橋の方にはその気は感じられない。痺れを切らした借家人たちは、思い切ってプレハブの仮店舗を建て、不自由な環境でも営業を再開する決断を下した。しかし事故から14年も経ってから、地主側が家屋撤去と土地明け渡しの訴訟を起こし、事態は泥沼化を辿るのであった。
事故前までは地主と借家人の関係は極めて良好で、家族ぐるみの付き合いだったという。被害者たちは、大切な家族、家財ばかりでなく、こうした人間関係すらも墜落事故で失ったのだった。
半世紀後の事故現場を訪れて
こうした顛末を頭に入れ、いざ町田の事故現場へと向かった。
新宿から小田急線の急行に乗って30分。商業施設が充実し、立派なペデストリアンデッキを境に多くの人と車が往来する、地方都市然とした町田駅に降り立った。
現場に向かったとはいえ、正確な住所は本にもどこにも書かれていない。ネットで得た断片的な情報をもとにしばらく原町田周辺を歩き回ってはみたものの、これといった所は見つけられない。ひとまず休憩でもと駅まで戻りかけたその時、どこかで見覚えのあった景色が目に飛び込んできた。
町田での墜落事故を後世に伝えようとする市民運動のウェブサイトと動画で見た光景と同じだった(埋もれた記憶(町田の米軍機墜落事件) )。
石碑があるわけでも看板が立っているわけでもない。そこには何の変哲もない駐車場が広がっていた。
今でこそ中心街の喧騒から少し離れやや落ち着いた地域となっているが、事故当時、国鉄の原町田駅は今よりも現場に近い場所にあり、この「グラウンドゼロ」は駅から300mしか離れていなかった。
高速移動体のジェット機にとって、300mとは誤差の範囲に収まるぐらいのあってないような距離である。もし駅や車両が巻き込まれていたら、さらなる惨禍の拡大もあり得たであろう。
事故現場と、墜落したジェット機が向かっていた厚木基地は、直線距離にして10kmも離れていない。こうした地理的条件に置かれている町田市は、現在においても厚木基地を往来する航空機の「通り道」であることが確認されている(町田市「訓練内容・飛行コース」)。また市としてもこうした航空機がもたらす騒音問題などに取り組んでおり、米軍や日本政府に訓練の中止や飛行の制限などを要請している(町田市「町田市の航空機騒音」)。
町田米軍機墜落事故は50年以上も前に起きた、無辜の市民の人生を狂わせた不幸な出来事だった。
しかし都内で起きたこれだけの惨事であるものの、知名度はそれほど高くないのではないかと感じる。
私自身、都内の在日米軍基地を調べはじめてから知った事実だった。
後に触れる大和・横浜での墜落事故では、事故後市民の働きかけにより記念碑が建立されている。だが何故だか町田の事故では、記憶にとどめておくきっかけとしての碑がないという。今や人口42万人超に膨れ上がった町田市をはじめ、首都圏に住む多くの人々の頭の中から、この史実が消え去りつつあることは想像に難くない。
事故の風化は、平和の証ではないか。
いや、そんなことはない。
近年においても、周辺自治体を含めて度々部品落下や不時着といった事象が報告されている(町田市「町田市周辺で発生した米軍・自衛隊機の事故」)。
潜在的な事故の危険性は、半世紀経った今も、我々の頭上からは消えていないのである。■ bg
(続く)
昨日、墜落事故53周年の集いが開かれ、参加(一つは主催者側)し、今朝、このブログを初めて読んでいます。抑えた筆致でわかり易く、心を込めて書かれていると思います。FB「町田の米軍機墜落事件を記録する会」の共同管理人です。今後とも、宜しくお願いします。
コメント、ありがたく拝読いたしました。
そう、4月5日は事故が起きた日でしたね。活動についてはフェイスブックを見させていただきました。
私自身、東京に長く住んでいながら、町田で米軍機墜落事故があったことなどずっと知りませんでした(自分が生まれる前の出来事ではありますが)。
そしていろいろ調べていくうちに、基地や日米安保への自分なりの思いや考えを巡らすようになりました。
事故から何を思うかは人それぞれで大いに結構なのですが、そうした事実と、ふとした時に自然と出会える、そんな場所や機会が、あまりにも少ない点が問題だと感じました。
とても不幸な事故でしたので、それをなるべく目立たせたくない、忘れたいという気持ちにも理解が及ぶのですが、歴史は人に知られ、人目に触れられることで、その価値に奥行きが生まれてくるものだと思います。みなさんの活動を陰ながら応援させていただきます。
この場所の目の前で、サーフショップを営んでいるものです。毎年4月5日にはこの駐車場に向かって手を合わせています。私はちょうどこの事故が起こった1964年に生まれた、戦中もいわゆる戦後という時代も知らない世代ですが、自身が長崎の被爆二世という生まれもあり、戦争には子供の頃から強い関心を持って育ちました。原爆を生き残った人や二世たちが戦争が終わった後も被爆の影響で苦しんでいたことと、このような米軍による事故は気持ちの中で重なるものがあります。いまでもここは厚木基地への侵入経路になっていて、オスプレイが横切っていくこともあります。戦争同様、風化させてはいけない事故だと思っています。
コメントありがとうございます。
事故現場を探す際に随分と周辺をさまよったので、貴店の場所も覚えております。確かにあの駐車場の目の前でしたね。
戦争も原爆も、町田で起きたような墜落事故も、犠牲者、被害者にとっては不条理極まりない仕打ちだったはずです。そんな非業な死を遂げたひとたちを悼む、またそこで負った傷に苦しんだひとたちに思いを馳せることは、たんに過去を振り返っているのではなく、未来を生きるひとたちに向けた、今を生きる我々が果たすべき責務のような気がします。私自身も戦争の経験はありませんが、既に起きてしまった事実を掘り返すことで、次の世代に何か希望のようなものを繋げたい、そういった意識を持つようにしています。
また4月5日がやってきます。
相模台小学校同級生のお家です。
吉田智子さんは同級生なのです。
飛行機墜落事故で幸運にも生き残ったのに、
またもや行幸道路で米軍兵の車で小学6年の時、
交通事故に合い、死去されました。
今も記憶がございます。
自分、昭和35年生まれです。
ご冥福をお祈り申し上げます。
コメントありがとうございます。
こうして当時何らかの関係があった方から連絡をいただくと、何の関係もなかった自分でも、奥行きをもって事故を感じることができます。
ご家族や友人の方にとって、事故はあまりに不幸で不条理なものだったと推測します。特に若くして事故に遭われ亡くなったとなれば、本来ならその先に続いたであろうご本人の将来を思うと不憫さを覚えます。
ただ、残された人が、その人のことを「思い出す」ということで、その無念さのいくばくかは晴らされるのではないか、と最近思うようになりました。
毎日ではなくても、何かの事があるごとに、その人のことを思い出す。事故についても、忘れない。忘れないためには、語り継ぐ必要がある。それがきっと、教育というものではないかと、大仰ながら思うのです。
私のブログは、本当に小さい瑣末な世界の一片ですが、そんなきっかけになればいいなと思います。どうもありがとうございました。