前口上:東京にいて「平和憲法」や「沖縄の基地問題」を声高に訴えるバツの悪さ

いつも通る道の裏

ある晴れた冬の日、近所のとある場所まで自転車で出かけた。

住宅街には場違いなほど鬱蒼と木々が茂った一帯があり、その光景を写真に収めながらトロトロと流していた。細い道の角を曲がった瞬間、目の前にいきなりお寺と思しき建物があらわれてドキッとした。
あまりに唐突な場面転換に、なぜか慌ててその場を離れようとすると、あっという間に大通りの歩道に放り出された。そこは普段、買い物に行く際にクルマで通る馴染みの道だった。

いつも通るこの道の裏に、こんな景色が広がっていたんだ。

大通り沿いには住宅やコンビニ、ファミリーレストランや社屋などが建ち並び、その奥に何があるのか窺い知ることができない。そもそも普段なら一瞬で通り抜けてしまっていたような場所だった。

身近にありながら気がつかないモノや事柄を「死角」という。
死角には、視野や認識に入らないような「構造」がある。

そんなことを思いながら、目的地にたどり着いた。
ごく普通の家々のなかに忽然とあらわれたその巨大で異様な建造物に、しばし目を奪われた。

「巨大で異様な建造物」の正体

新宿から西へ約20km、ちょうど東京都のど真ん中に府中市はある。多摩地域26市のなかで面積は5番目に広い29.34平方km、人口は八王子市、町田市に次ぐ3番目の多さとなる25万人超を抱える郊外の街だ。

大化の改新後に武蔵国の国府が置かれたという歴史あるこの地域には、京王線・府中駅を中心に商業エリアが広がり、さらに市内には大手企業の工場や大学、病院、日本銀行の電算センターや日本最大の刑務所・府中刑務所、多磨霊園、東京競馬場といった公共性の高い施設、さらに大小の緑豊かな公園など様々なものが揃っている。そして長年の私のホームタウンであり、個人的に馴染み深い場所でもある。

府中の森公園(東京都府中市)(撮影=bg)

府中の森公園(東京都府中市)(撮影=bg)

個人的にもよく利用している「府中の森公園」は市の東部にある都立公園で、サッカー場や広々とした芝生エリアのほか、「府中市美術館」も隣接しており、市民に親しまれている。

この公園を訪れ憩うひとたちは少なくないが、そのうちどれぐらいが、ここがかつて米軍基地であったことを意識しているだろうか?

公園の隣には「航空自衛隊府中基地」がある。しかしこの基地はヘリポートこそ備えているものの滑走路はなく、兵器や武器などが醸し出す基地特有のきな臭さとは無縁の場所に見える。

双子のように隣り合う公園と基地の奥に、かろうじて米軍基地時代の名残りを見つけることができる。生い茂る草木のなかに廃墟が点在しているそこは金網に囲まれて一般人は入ることができないが、フェンスに沿って住宅の間の細い道を進むと、やがて1本の鉄塔と、2つの大きなパラボラアンテナが見えてくる。冒頭の「巨大で異様な建造物」とはこのことであった。

かつて我が街にあった米軍基地

あのパラボラアンテナはいったい何なのか?

都内にある米軍基地や施設の情報がまとめられた『東京の米軍基地』(東京都)の2014年度版を開くと、「府中通信施設(Fuchu Communication Station)」と呼ばれる米軍施設の一部として紹介されている。

府中通信施設(東京都府中市)(撮影=bg)

府中通信施設(東京都府中市)(撮影=bg)

施設の面積は1万6661平方mで全て国有地。管理部隊は米空軍第374空輸航空団、使用部隊は同軍第374通信中隊と、アメリカ空軍の施設であるらしい。用途は通信(事務所、通信施設)とあるが、外見からすると廃墟ばかりが目立つ上、パラボラアンテナはいい色に錆びており、稼働しているようにはとても思えない。

旧日本陸軍の燃料廠(廠〔しょう〕とは壁のない建物の意)として1940(昭和15)年に設置されたこの場所は、敗戦直後の1945(昭和20)年9月にアメリカ軍に接収され、在日陸海空三軍の調整等を主任務とする在日米軍司令部、および日本・韓国の米空軍を統括する第5空軍司令部等が事務所および宿舎施設等として使用していた。当時は「府中空軍施設」と呼ばれ、最盛期には軍人・軍属約2300人、施設で働く日本人従業員は実に1400人を数えたという。府中は米軍基地の街だったのだ。

その後、1973(昭和48)年に日米両政府により合意された「関東計画」により、翌年には在日米軍司令部と第5空軍司令部が、都西部の横田飛行場(横田基地)に移転。施設の大部分は日本へ返還され、航空自衛隊基地や公園として利用されるようになったとある。

「府中に大型のパラボラアンテナがある。それは日本の防衛上重要な役割を担っている」ということは、子供の頃に何かで読んで知っていたが、実物はずっと昔、チラッと眺めたくらいだった。
そのアンテナがあるうちにちゃんと見ておこうと出かけてみたのだが、この何気ない散策が、在日米軍や日米安保、基地そのものについて調べるきっかけとなった。いくつか文献をあたってみると、知らなかった事実に次々と出会うことになった。

東京にある在日米軍の基地・施設

例えば都内には在日米軍の基地・施設が8ヵ所ある。このうち有名な「横田基地」は筆頭で名前が挙がりそうだが、残り7ヵ所をすべて答えられるひとはそうはいないはず。前記の府中通信施設に加え、都心のど真ん中にはヘリポート施設、郊外にはゴルフ場などを擁するレクリエーション施設、そして遠く硫黄島には通信(訓練)施設などがある。

以下の地図にその8つ(硫黄島は本土からおよそ1200kmも南方にあるため欄外)をプロットしてみたが、都内に長く暮らしていながら、それぞれの歴史や役割を知る機会はほとんどなかった。

 

在日米軍の施設・区域で東京は全国4番目

またこんな事実にも初めて接した。在日米軍基地といえば、誰もが真っ先に「沖縄」を思い浮かべるに違いない。実際、在日米軍の施設・区域(専用施設)の都道府県別面積を見ると、全体面積に占める割合で最も大きいのは沖縄で73.92%。日本の国土の0.6%しかない県に、桁はずれの広さの基地施設があることが分かるが、これはよく知られたことである。

 防衛省サイト「在日米軍施設・区域(専用施設)都道府県別面積」をグラフ化したもの。東京は沖縄、青森、神奈川に次いで4番目の広さ。

防衛省サイト「在日米軍施設・区域(専用施設)都道府県別面積」をグラフ化したもの。東京は沖縄、青森、神奈川に次いで4番目の広さ。

沖縄に次ぐ2位が青森(7.74%)、3位神奈川(5.61%)と続き、4番目に広いのは、意外にも首都・東京(4.31%)なのである(数字は防衛省サイトより/2015年1月1日現在)。そんなこと学校で教わったことはなかった。

さらに第二次世界大戦で日本で唯一激しい地上戦が行われた沖縄だが、その時上陸したアメリカ海兵隊がそのまま継続的に現在まで居座っているというわけではないということも初耳だった。当初は大勢の海兵隊員が本土にいたというが、ある時期を境に本土から沖縄になだれ込んだのだという(『基地はなぜ沖縄に集中しているのか』NHK取材班著、NHK出版に詳しい)。

■東京は基地問題とは無縁なのか?

府中にあった米軍基地に加え、都内にもかつて在日米軍基地や軍事施設が数多くあった。その数は1952(昭和27)年に208ヵ所。それが3年後には半減し110ヵ所、12年後の東京オリンピック開催時には23ヵ所と激減し、1993(平成5)年には現在の8ヵ所に落ち着いた(『東京の米軍基地』2014年度版より)。

在日米軍基地数推移(データ:東京都『東京の米軍基地2014年度版』より)

在日米軍基地数推移(データ:東京都『東京の米軍基地2014年度版』より)

この間、基地や施設が減ったのは東京だけではない。前掲の『基地はなぜ沖縄に集中しているのか』によると、1952年時点で日本にあった米軍基地の総面積は1353平方kmで、その90%近くが本土に置かれていた。1957年に行われた日米首脳会談で、日本に駐留する米軍の陸上兵力の全面撤退が両政府によって合意されると、1960年には在日米軍基地の面積は10年前のおよそ4分の1、施設数に至っては10分の1まで一気に縮小した。

一方で、本土と沖縄のバランスが逆転しはじめたのもこの頃だった。本土に展開されたアメリカ海兵隊が沖縄に移ったことも相まって、割合は50:50と不均衡な状態に陥る。その後も基地返還は本土では進み、沖縄ではなかなか進展せず、現在のように基地面積の約74%が沖縄に集中する極めてバランスの悪い状況ができあがった。

私は人生の大半を東京都下を中心に暮らしてきたが、基地の存在を身近に感じることはなく、騒音やその他の問題とは無縁に生きてきた。またメディアで取り上げられる基地の話題は沖縄に集中していることもあり、基地や、その基地が担っている国家の安全保障といったものは他人事のように思っていた。

沖縄在日米軍施設・区域(専用施設)の件数と面積の推移 (データ:平成 25 年版防衛白書より)

沖縄在日米軍施設・区域(専用施設)の件数と面積の推移 (データ:平成 25 年版防衛白書より)

だが、これら様々な事実を前にして、本当に東京にいる自分と基地問題は無縁といえるのだろうか?と疑念が芽生えはじめた。

知らなかったことが多すぎたと、自らの不勉強として片付けることもできるかもしれない。
しかし、その知らなかったことは、東京や本土に住むひとの目に触れないよう、巧みに包み隠されてきたのではないか?とも思えてならなかった。
東京都の人口は1322万人超、都市圏としては3000万人を超える。この世界屈指の人口過密エリアには、実は大きな「死角」があり、死角を死角たらしめる「構造」があるのではないか?

多くの人間から、基地問題や国家安全保障の不都合な真実を見えなくする「死角」と「構造」。いつしかその死角に生きることに慣れ、死角に隠れる様々な事象は「なきもの」として扱われるようになったのではないか?

そこはかとない「バツの悪さ」

2012年12月に安倍晋三・自民党が政権の座に就いてから、この国のあり方が大きく変わってきたという声がある。
集団的自衛権、憲法改正、そして60数年にわたり安全保障上のパートナーだったアメリカとの軍事面での関係強化、安保法制。さらに普天間基地・辺野古移設問題には沖縄が県をあげて反対意思を表明しているという。

そんな状況に、自らの立ち位置を決め、異論反論を声高に叫ぶこともできる。
「平和憲法を守れ」
「日本を戦争ができる国にしてはならない」
「安倍晋三は独裁者だ」
「辺野古の海を守れ」
「基地はいらない」
「対米従属だ」

確かに史実からして、1945年以降日本は戦争を起こしていない。そういった意味で日本は平和国家といっても差し支えないかもしれない。
しかし平和とは、たんに憲法に「戦争の放棄」「戦力の不保持」が書かれているから保たれているものなのだろうか?
平和のために戦力を持たないとしている国が、世界最強の軍備を誇るアメリカの基地を受け入れていることに、矛盾はないのだろうか?
対米従属が問題なら、アメリカの力を借りずして、日本独自の安全保障体制を築く戦略や覚悟はあるのだろうか?
そもそも「国家」とは何なのか?

私は、東京にいて「平和憲法の維持」や「沖縄の基地問題の解消」を訴えることに、そこはかとないバツの悪さを覚えている。
我々は、何者かによってつくられた「死角」という安全地帯で、たんに“自分たちの平和”を謳歌していただけなのではないか?

読み調べ、基地を見に行く

戦後70年の節目に、我々がやるべきことは暗に「現状維持」を唱えることではないはずだ。
より良き世界をつくるために自ら率先して過去に向き合い、それぞれが思考することこそ大切なのだと思う。

そこで、とても小さな一歩だが、私は東京にいて基地の問題を自分なりに考えることにした。そしてその足跡をブログに残すことにした。

文献を読み調べ、そして都内や近郊にあるいくつかの基地や施設に足を運んでみた。もちろん防衛関連施設に一般人は容易に入れないのだが、書き物で得た知識に、五感からの情報を合わせることで足りない「深さや広さ」を補えると考えたからだ。

基地問題をはじめ防衛や安全保障、外交といった世界を考えるには、相応の知識の深さ・広さが必要で、一介の凡人には手に余る。素人ゆえの浅知恵を恥じながらも、ブログでの連載を通して、この拭えないバツの悪さとささやかな格闘を演じてみようと思う。■ bg

厚木海軍飛行場(神奈川県綾瀬市・大和市)(撮影=bg)

厚木海軍飛行場(神奈川県綾瀬市・大和市)(撮影=bg)

bg

1974年生まれ。都下在住。生きるということは「世界の解釈」、そのひとをそのひとたらしめるのは、その「世界の切り取り方」にあると思います。

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