第4章:時の「死角」~町田・大和・横浜での米軍機墜落事故~その3「大和米軍機墜落事故」

bg

1974年生まれ。都下在住。生きるということは「世界の解釈」、そのひとをそのひとたらしめるのは、その「世界の切り取り方」にあると思います。

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2件のフィードバック

  1. 堀江 励勝 より:

    即死した3男舘野和之君は小学校・中学校を通して同級生でした。報道で事故を知り同級生宅を回り弔慰金を集めて、元担任と数人の有志同級生で上草柳を弔問したことをはっきりと覚えています。18歳の初秋でした。その後の舘野家の葛藤など知る由もありませんでした。
    1985年8月12日、日航機墜落事故が発生し、その26年後の2011年12月の忘年会の中で関係者だった仲間からぽつりと一言、愚痴が洩れたのをきっかけにネットで大和墜落事故のその後を知り、日米安保協定と推進する自民党に疑問を持つようになりました。

    • bg より:

      書籍や新聞以外で、当時を知る方からお話をうかがえる機会はそうはありませんので、コメントありがたく頂戴しました。
      何しろ自分が生まれるだいぶ前の事故だったので、事故現場を訪れて初めて、ある種の現実感を覚えたくらいでした。だからでしょうか、慰霊碑を前に戦闘機が低空で飛び去っていった時、その爆音以上に、予期せぬ大きな衝撃を受けました。ああ、あの事故は本当にここで起きたんだろうな、という肌感覚というべきか。
      いまではネットで手軽に情報を手に入れられますが、実際にその場に足を踏み入れたり、またゆかりある方のお話を聞くと、その情報への感度が上がるというか、ものを見る焦点が合ったような感じを受けます。そういった意味を込めて、とても貴重なコメントいただき感謝しております。ありがとうございました。

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