第4章:時の「死角」~町田・大和・横浜での米軍機墜落事故~その3「大和米軍機墜落事故」

死者4人、重軽傷者32人を出した「町田米軍機墜落事故」から半年も経たない1964年(昭和39年)9月8日、再びアメリカ軍のジェット戦闘機墜落という惨劇が起きた。場所は厚木基地の目と鼻の先となる神奈川県大和市。高度経済成長期の折、前途に期待を膨らませてこの地に鉄工所を移してきた一家と関係者5人が犠牲となってしまった。

基地周辺の「不思議な空間」

音とは空気の振動である、という当たり前の事実を全身で体感できる、そんな場所である。

グォォォォという雷鳴のような野太い轟音がどこからともなく飛んできては我が身にぶち当たり、臓物をも揺さぶらんばかりの衝撃を受ける。まるで目に見えそうな音である。

そんな圧倒的な空気の波動に襲われる感覚に驚き、密かに慄きすらしているのはどうやらここでは私だけのようで、まわりを見渡せば学校帰りの子供たちが道端で楽しげに遊び、老人は犬とともにのんびりと散歩し、ご婦人は自転車で買い物に出かけ、花屋は客の相手をし、学生はカフェで談笑している。みな平常通りといった趣である。

きれいに整備された大和駅前。どこにでもある普通の地方都市に見えるが、近隣の厚木基地から突然雷鳴のような戦闘機の爆音が鳴り響いてくる。(撮影=bg)

きれいに整備された大和駅前。どこにでもある普通の地方都市に見えるが、近隣の厚木基地から突然雷鳴のような戦闘機の爆音が鳴り響いてくる。(撮影=bg)

小田急線で新宿までおよそ50分、東急線を使えば渋谷まで40分程度、相鉄線に乗れば横浜まで約20分と何かとアクセスが良い神奈川県大和市の大和駅に来た。ここから徒歩で厚木基地を目指そうというのである。
駅から続く街並みは既視感を否定できないものだが、いきなり聞こえてくる戦闘機の爆音はかなりの迫力をもって部外者の私を迎えてくれた。

西へと歩を進めると、やがて河原のように開けた場所に出た。県道40号線と相鉄線が並行して走るラインに沿って張り巡らされたフェンスの向こう側には、南北約2400mの滑走路が見える。ここは厚木基地の北限にあたり、数百m北に行けば東名高速道路、さらに北上すると国道246号線という主要道路を渡ることになる。

厚木基地の北には広大な森林地帯が広がり、公園や釣り堀などが点在する。(撮影=bg)

厚木基地の北には広大な森林地帯が広がり、公園や釣り堀などが点在する。(撮影=bg)

厚木基地の北部一帯は広大な森林エリアだ。東名高速までが「ふれあいの森」、それ以北は「泉の森」という自然公園で、この辺りを水源とする引地川のまわりに草花を愛でるための場所やキャンプ場、釣り堀などが集まる。
釣りを楽しむ人や子供を連れた家族、親友同士と思しきグループが思い思いの時間を過ごしているように見える。しかしその頭上では戦闘機が往来を続け、その度に耳を擘くような騒音を浴びせられる。ここに憩う人たちに、どれほどの安らぎがもたらされるというのか、正直疑問に思った。

とても平凡に見えるが、どうにも平凡らしからぬ空気が漂う街。どう噛み砕いていいのかとても迷う不思議な空間である。

「大和米軍機墜落事故」の事故現場は、厚木基地に隣接するこの森のなか、大和市上草柳に見つけることができる。

「移転措置区域」に移転してきた鉄工所

上述したように都心へのアクセスに優れた大和市では、戦後日本の経済成長とともに人口が劇的に増加した。市制が施行された1959年(昭和34年)に約4万人だった人口は、1992年(平成4年)には5倍の20万人を突破。宅地面積は約4倍に膨れ上がる一方で、農地や山林は縮小の一途を辿った。大和市が公開している資料「大和市の都市特性」を見ると、1960年から1970年の10年間で「田・畑・山林」と「宅地」の面積が逆転しているのが分かる。

事故前の大和市上草柳周辺にもまだ農地が残っていたが、厚木基地の至近ということもあり特殊な状況に置かれていた。1960年(昭和35年)10月に閣議決定された「厚木飛行場の隣接地区に所在する建物等の移転補償等について」に基づき、国は基地周辺の一定区域の建物等を区域外に移転する措置を講じており、上草柳も該当地域だった(防衛省「大和市への米軍機墜落事故への取組」)。

そんな事情を背景にしながら、この地に移り住んできた一家がいた。舘野正盛の家族である。ここから先は、既に馴染みのある『米軍機墜落事故』(河口栄二著)から情報を引くことにする。

この土地の地主は代々農業を営んでいたが、くだんの移転措置に応じて、1962年(昭和37年)に上草柳内の少し離れた場所に住まいを移していた。しかしこの宅地部分に対する当時の防衛施設庁の買収価格が安く、家屋の新築費用が不足したため、さらに土地を売らなければならなかったという事情があった。

元は農耕牛の放牧用池だったその土地の購入に手を挙げたのは、都内大田区で鉄工所を経営していた舘野だった。工場から出る騒音に住民から苦情が度々寄せられ、移転先を探していたのだった。

工場誘致を推進していた神奈川県海老名市の土地を一度は買収するも、やはりここでも住民からの反対運動が起き、移転計画はなかなか進まない。苦しい立場に追い込まれた舘野は海老名市と不動産業者と協議し、隣接する大和市の上草柳の土地と入れ替えることが決まった。周囲が畑で騒音苦情の心配もないこと、また大和市が将来的に工業誘致を図りたい場所だったことなどの条件が後押しした結果だった。

こうして事故の2年前、舘野鉄工所は大和市で操業をはじめた。6人の子供たちのうち上の男3人が工場で働き、長女は家事のかたわら事務を手伝い、舘野の信頼する従業員数人がしっかりと脇をかためていた。

1964年(昭和39年)9月8日火曜日。工場では朝早くから、当時25歳だった長男を中心に、新しいエアハンマーの試運転が行われていた。

この日、同業者組合の関係で留守にしていた舘野は、外出先の市役所で米軍機墜落の報に接した。

鉄工所で働く5人が犠牲に

午前10時58分、厚木基地滑走路でタッチ&ゴーの定期訓練をしていた米海軍第七艦隊所属の空母ポンノム・リチャード号(引用者注:Bonhomme Richard=ボンノム・リチャードあるいはボノム・リシャールと読むのが適当)の艦載機「F-8Cクルセーダー機」が、離陸直後にエンジントラブルを起こし失速。機体は地面すれすれに滑空するように落ち、一度バウンドしてから民家の一部をかすめ、杉の木々をなぎ倒しながらなおも直進。基地から1200m離れた舘野鉄工所のブロック塀に激突し、工場内を突っ切っていった。

その瞬間、大きな爆発が起きた。11トンものエアハンマーに機体がぶつかり燃料タンクが破砕、周囲の重油やガスに燃え移ったことで火災は酷さを増した。エンジンなど主要部分を残した機体は、そこからさらに200mも先の畑のなかで焼け落ちた。

すぐさま消防車、救急車、パトカーが現場に急行したもの、目と鼻の先の基地から駆けつけた米軍のSP(海軍警務隊)とMP(海兵隊憲兵)が日本人関係者の行く手を阻む。現場に駆けつけた大和市の石井正雄市長が米兵のトランシーバー越しに厚木基地司令官オニア・B・スタンレー大佐と掛け合い、必要最少限の日本人関係者の立ち入りが許可された。

パトカーに先導されて舘野が到着したのは午後1時近くになってから。制止する兵士を振り払い現場に足を踏み入れると、凄惨な光景が目に飛び込んできた。長男と19歳の三男、従業員で舘野の兄の子(25歳)が変わり果てた姿になって横たわっていた。猛烈な火に煽られた死体はすっかり炭化しており、「けものの屍体のように思われた」(『米軍機墜落事故』 95ページ)。3人とも即死だった。

病院に運ばれた次男(23歳)と職長も「鞣(なめ)した牛皮」(同 96ページ)のようなひどい火傷で助かる見込みがなかった。翌日と5日後に、2人も後を追うように息を引き取った。鉄工所で働く5人が犠牲となり、さらに軽傷者4人、全焼3棟、全壊1棟、周辺家屋には数々の損壊を残す大事故となった。当時の事故現場の模様は、防衛省「大和市への米軍機墜落事故への取組」のなかの写真で確認することができる。

実はこの日、ほんの1時間程前にも、近隣で別の米軍機墜落事故が起きていた。横田基地から厚木基地に向かう途中の「F105ジェット戦闘爆撃機」がきりもみ状態で落下、厚木市旭町の川辺に墜落した。幸い近くに民家がなく民間人の犠牲者は出なかったが、乗員が亡くなっている。なお鉄工所に墜落した戦闘機のパイロット、R・C・スロウダウン大尉は墜落直前に脱出、付近の山林で救出されていた。

横浜防衛施設局からの「通告」

事故後の舘野を待ち受けていたのは、5ヵ月前の町田米軍機墜落事故と同じような補償問題との格闘だった。今回の場合、基地隣接地であるという特異な条件がことをより複雑にしていた。

葬儀を終え、工場跡地に仮住宅が建てられ、これから様々な整理をしなくてはならないという頃に、舘野は横浜防衛施設局から「この土地での工場再建は不可能、土地の買収に応ずるように」との通告を受けた。

この事故をきっかけに政府も基地周辺の安全対策強化の検討に本腰を入れることになるのだが、確固とした法的根拠となる「防衛施設周辺の整備等に関する法律 (周辺整備法)」の制定は1966年(昭和41年)まで待たなければならず、先の横浜防衛施設局の通告も、当面の行政措置という微妙な立ち位置にあった。強制ではないが半ば強制的な移転が舘野を追い込んで行った。

横浜防衛施設局から提示された工場跡地の土地買い上げ価格は低く、代わりの土地購入を考えても不足が著しい。舘野はその差額を補償してくれないかと要求した。これに対して同局事業部長は、差額補償は難しいが、国有地を買収価格と同価格で払い下げるという「払い下げの約束」を示してきた。

以降、舘野は指定を受けた土地をいくつかまわったものの適当な場所を見つけられず、そうこうしているうちに今度は舘野から同局に損害賠償請求を出す番となった。その額、1億5000万円。遺族補償から会社および私有財産に対する補償、休業補償など精緻に計算し導き出した数字だが、これも同局の提示額と差がありすぎ、交渉は難航を極めた。

否定された「払い下げの約束」

事故から7ヵ月後の1965年(昭和40年)4月、防衛施設庁の調査官と参議院議員、県会議員、そして舘野が集まり、補償額の最終案の交渉がもたれた。防衛施設庁の指定で、場所は舘野も党員だった当時の民社党の事務所とされた。おそらくは防衛施設庁の説得工作の意図があったのだろう。

同庁からの補償額は4500万円、舘野の請求額は4800万円まで大幅に切り下げられていた。調査官はここで「不足分は代替地の払い下げで考える」と正式に確約したという。

この交渉の後、4500万円では米軍が承服しなかったとしてさらに700万円が引かれ、舘野はその額を仕方なく受け入れた。議員の立会いのもと約束された「払い下げ」を拠り所にした決断だった。

1966年(昭和41年)3月、横浜防衛施設局の強い要望により舘野は工場跡地を売却。しかしまだ代替地は見つけられずにいた。翌年の10月、神奈川県渉外部から新たな適地として指定された大蔵省所管の国有地は、最初に実地検分して保留にしていた場所だった。舘野はこの場所で再起を図ろうと腹を決め、先の払い下げの約束を果たしてもらおうと横浜防衛施設局にその意向を伝えた。既に舘野の手元に損害賠償金はほとんど残っていなかったため、県会議員に資金調達の調整を依頼、その目処もついていた。

同局いわく、あの土地は大蔵省の所管なので関東財務局に直接申請を出すように、と。
舘野の書いた申請書は関東財務局に送られた。横浜防衛施設局から入った「代替地」という文字を抜くなどの訂正指示に一抹の不安を覚えながらも、舘野は前向きな返答を待った。

事故から4年が経過した暮れのある日、関東財務局から横浜防衛施設局と神奈川県知事に届いた返答は、「申請には応じられない」というものだった。

あの払い下げの約束は何だったのか?

激怒する舘野は、横浜防衛施設局や防衛施設庁に抗議を繰り返した。また民社党の代議士を通じ、衆議院内閣委員会でこの件の質問がなされたこともあったが、約束を証明する物的証拠がないという決定的に不利な状況を前に、事態はなかなか動かなかった。

1971年(昭和46年)9月、舘野は国・防衛施設庁を相手取り、払い下げの約束をした代替地の明け渡しと、所有権移転登記手続き等の請求を東京地裁に起こした。国側は、工場跡地は「強制的な買収ではなかった」とし、さらに払い下げの約束については「斡旋はしたが約束した覚えはない」と、舘野の主張をことごとく否認していった。

一審で棄却、控訴の後の和解

舘野が起こした裁判の顛末については、毎日新聞の神奈川県版が2014年1月に組んだ特集「基地のあるまち」に詳しい。

1978年(昭和53年)6月に東京地裁が出した判決は「棄却」。やはり払い下げの約束を裏付ける証拠を欠いていた。

それでも舘野は控訴することを選んだ。

控訴審になると、舘野を支援する人たちも集まりだした。戦後の混乱期に起きた「松川事件」など冤罪事件の多くを手がけた植木敬夫弁護士が弁護団長に就任。さらに絵本作家の田島征三、シンガーソングライターの横井久美子らアーティストが中心となって「支援する会」が結成され、家族と疎遠となり資金難にも陥っていた舘野を後押しした。支援者の地道な活動はやがて全国に広がり、犠牲者の月命日のビラ配りは遠く四国や九州でも行われるようになった。

また同時期に、後に触れる「横浜米軍機墜落事故」の被害者も国などを相手取り裁判を起こしていた。こうした機運が「反安保、反米軍」という大きなうねりに発展することを恐れたからか、1982年(昭和57年)に舘野の裁判では和解が成立した。

「国は、舘野さんの現在の生活が事故前とかけ離れていることの遠因に、米軍機墜落事故があることを考慮して1200万円を支払う」ということだった。争点の「払い下げの約束」については決着が付かなかったが、一審で勝訴していた防衛施設庁が一転して責任を認め解決金を支払う異例の結末を迎えたことは事実だった(以上、毎日新聞神奈川版【基地のあるまち 第1部・犠牲 9「反安保」恐れ国和解】2014年1月12日付)。

だが、和解後に舘野が穏やかな人生を取り戻すことはなかった。支援する人たちにもつらくあたり、解決金も使い果たし、家族とも疎遠なまま、2004年6月に亡くなった。ちょうど40年前の事故で無残な死を遂げた息子3人とともに、横浜市内の墓に眠っている(毎日新聞神奈川版【基地のあるまち 第1部・犠牲 10 当事者意識 国に欠落】2014年1月14日付)。

慰霊碑を訪れて

私が上草柳を訪れるのはこれで3度目だった。大和駅から厚木基地への道で、あの轟音にいちいちびくびくすることもなくなってきた。ただし、慣れたわけでは決してなかった。

大和市によると、滑走路の北約1km、つまりこの周辺で測定される騒音計の値は最大で119デシベル(大和市「航空機騒音測定結果と苦情件数について」)。調べてみれば、飛行機(おそらく旅客機)のエンジンの近くが120デシベルというから、日常的に耳に入る音としては想像を絶する騒々しさである。

3たび森に分け入り、公園のなかを彷徨っているのには理由があった。
大和米軍機墜落事故の慰霊碑が、なかなか見つからなかったのだ。

地元新聞のサイトによれば、事故から50年後の2014年に慰霊祭が行われ、古くなった慰霊碑が再建されたとある(カナコロ「癒えぬ心の傷 米軍機墜落50年 大和で慰霊祭」2014年9月14日付)。この報道写真を手掛かりに、公園からやや離れた、釣堀がある道の坂をさらに登ってみた。

上下1車線の、車も人もあまり通らないような道。雑木林と緑色のフェンス、そしてひと1人が通れるぐらいの細い歩道で挟まれたその道は、写真の景色と酷似していた。

ようやく探し当てた慰霊碑は、何ともいえない佇まいを見せていた。

舘野鉄工所米軍機墜落犠牲者を追悼する慰霊碑。国有地の雑木林のなかに建てられている。(撮影=bg)

舘野鉄工所米軍機墜落犠牲者を追悼する慰霊碑。国有地の雑木林のなかに建てられている。(撮影=bg)

まっすぐ伸びる道路の向かって右側の金網に何かが掛けられている。歩道に突き出るかたちで、2つの千羽鶴が供えられていた。
その千羽鶴の真ん中に立つと、金網越しに、高さ2mは超える木製の慰霊碑が、木々の間に隠れるように建てられているのが見える。まるでそこにあることが憚られているかのようで、どこか座りが悪い印象を与える。

慰霊碑はフェンスの奥にあり近づくことができない。金網には千羽鶴が供えられている。(撮影=bg)

慰霊碑はフェンスの奥にあり近づくことができない。金網には千羽鶴が供えられている。(撮影=bg)

この金網に囲まれたエリアは、舘野が売却して以来、国有地とされ続けてきた。2016年には遺族と支援団体によりこの事故現場を慰霊公園とする陳述書が大和市議会に提出されたが、審査打ち切りとなったとの報道がある(毎日新聞サイト地方版「米軍機墜落事故 冥福祈り慰霊式 大和の現場跡地/神奈川」2016年9月10日付)。そのような顛末が、慰霊碑のありようにまざまざと反映されている。私にはそう見えた。

表向きのかたちはどうあれ、死者を悼む場所ならではの厳かな空気を感じていた。閑散とした道路の傍に立ち、碑に向かって手を合わせ目を閉じた。

駅へ戻ろうと踵を返したその瞬間、頭のすぐ上であの轟音が鳴り響き、すぐさま戦闘機が黒い影となりあっという間に基地に向かって飛んで行った。

事故現場に建てられた慰霊碑の上を、轟音とともに戦闘機が飛んで行く。(撮影=bg)

事故現場に建てられた慰霊碑の上を、轟音とともに戦闘機が飛んで行く。(撮影=bg)

やるせなかった。
そうした気持ちの高まりを感じたことが自分でも意外だった。

50年以上前に起きた悲惨な米軍機墜落事故の現場は、事実上放置されている。ささやかな慰霊碑のみが拠り所となっているものの、その暗く悲しい記憶は、時の試練に晒され朽ちてしまうすんでのところだ。なのに、相も変わらず米軍機は頭上を飛び交っている。

町田と大和、ふたつの米軍機墜落事故では共通して、加害者であるはずのアメリカ軍がその責任を一切問われていない。そして本来なら被害者に真摯に向き合うべき立場にいた自国の政府関係者もまともに取り合うことがなく、事故を葬り去ろうとした。日米安保、そして日米地位協定という国家間の不均衡な関係性が、舘野たち被害者を深い深い谷底に落とし込もうとした。一連の事故で起きたことは、そういうことだったのではないか。

ここで命を落とした鉄工所の人たち、そしてその後数奇な運命を辿った舘野らの無念を、慰霊碑というかたちですら満足に晴らすことができていない。そればかりか、事故の風化、すなわち忘却という、犠牲者と被害者にとって救いようのない仕打ちで返そうとしている。私にはそう思えた。

帰路の足取りが重かったのは、単に疲れていたからではなかった。■bg

(続く)

bg

1974年生まれ。都下在住。生きるということは「世界の解釈」、そのひとをそのひとたらしめるのは、その「世界の切り取り方」にあると思います。

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2件のフィードバック

  1. 堀江 励勝 より:

    即死した3男舘野和之君は小学校・中学校を通して同級生でした。報道で事故を知り同級生宅を回り弔慰金を集めて、元担任と数人の有志同級生で上草柳を弔問したことをはっきりと覚えています。18歳の初秋でした。その後の舘野家の葛藤など知る由もありませんでした。
    1985年8月12日、日航機墜落事故が発生し、その26年後の2011年12月の忘年会の中で関係者だった仲間からぽつりと一言、愚痴が洩れたのをきっかけにネットで大和墜落事故のその後を知り、日米安保協定と推進する自民党に疑問を持つようになりました。

    • bg より:

      書籍や新聞以外で、当時を知る方からお話をうかがえる機会はそうはありませんので、コメントありがたく頂戴しました。
      何しろ自分が生まれるだいぶ前の事故だったので、事故現場を訪れて初めて、ある種の現実感を覚えたくらいでした。だからでしょうか、慰霊碑を前に戦闘機が低空で飛び去っていった時、その爆音以上に、予期せぬ大きな衝撃を受けました。ああ、あの事故は本当にここで起きたんだろうな、という肌感覚というべきか。
      いまではネットで手軽に情報を手に入れられますが、実際にその場に足を踏み入れたり、またゆかりある方のお話を聞くと、その情報への感度が上がるというか、ものを見る焦点が合ったような感じを受けます。そういった意味を込めて、とても貴重なコメントいただき感謝しております。ありがとうございました。

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