中年と若年、世代間の感覚的距離感の隔たりという問題について

“肌感覚的”な距離感の謎

人間の感覚的なものを可視化するとして、齢を重ねてきた中年(仮に50歳)と、その半分しか生きていない若年、それぞれの世代から見た相手との距離感を表すと、きっとこんな感じになるのではないか。

50歳から見た25歳
中年 ——–> 若年

25歳から見た50歳
若年 —————————-> 中年

個人的な話をすれば、押しも押されもせぬ中年であり、それは事実としてしっかりと受け止めているつもりである。それでもなお、25歳から「先輩」と呼ばれ、やわらかいようでチクリと刺さるような「あなたはずいぶん年配ですよ」という視線を受けることに、違和感を禁じ得ないのである。「その通り、まあ先輩なんだけどさ……」と心のなかで独りごちる。「もう少し、君たちを近くに感じているつもりなんだが……」。

この「……」という、胸中複雑な思いは、極めて“肌感覚的”なことである。世代間における肌感覚的な距離感という切実な問題意識(という大袈裟な問題提起)を、どうやったら言語化できるか。中年は悶々と頭を悩ませた。

上から見れば円、横から見れば螺旋

この距離感については、言語化の前に図解してみると理解しやすい、ということに気がついた。
中年の立場からしたら、50歳と25歳は、同じ円の上を巡っているのだ。

例えば、先週観た映画の話で、その主役の俳優が好きか嫌いかなどたわいないことで盛り上がっているとする。この時、2人は円の上の比較的近い場所を、同じ方法に向かって進んでいるようなイメージになる。

しかし、円だとばかり思っていたこの道は、実は螺旋状になっている。
視線をずらすと、高さが見えてくる。近いと思っていたら、実は何周も差がついていたことにハッとするのだ。

年長者である中年は、どうしても真上からの目線になりがちだ。とはいえ下には螺旋の道があって、過ぎ去った日々の既視感ある景色が連なっている。過去に新鮮味などないため、距離感としてもずっと短く感じられる。

一方で、螺旋の下から中年を見上げる若年にとっては、中年のいる前方に向かって、未知の道が延びている。これからどんな過程を通るか分からないのだから、景色が明瞭に見えるということもない。すなわち、遠くに感じるのだ。

中年の上から視点では、円を回る運動に見えてしまい、しかも“いま”という時を若年と過ごしているのだから「共時的」になりやすい。
これが若年からの視点になると、そこに時間の経過という「通時的」な感覚が、構造的に入り込みやすい。

「感覚的距離感の隔たり」の正体は、近いとばかり思っていた2人の間に、世代という高さを加えることで、中年の心に言葉となって刻まれたのだった。

……って大袈裟に書いたところで、「そんなの当たり前のことだろ」と突っ込まれそうだが、いやいや、この肌感覚の違和感というのは、中年になってみるとヒシヒシと感じるもので、こうして自らにいちいち諭すようにしないとソワソワしちゃうのが中年という生き物なのですよ。まあ、25歳には分からないだろうけどね。

細野晴臣「人生は一直線じゃない」

円と螺旋のたとえ話のヒントは、細野晴臣から得たものだ。

なんか一回りするんだという実感があったことはあったんですよ。
だから人生は一直線じゃなくて、螺旋を描いて回ってるんだと。
上から見ると同じところにいるようで、横から見ると違うところにいる。
2011年5月29日放送 NHK ETV特集「細野晴臣 音楽の軌跡〜ミュージシャンが向き合った“3.11”〜

そう、人生は一直線ではないのだ。同じところをぐるぐる回っているようで、実は高さのある螺旋なのだ。まあ、25歳には分からないだろうけどね。■bg

bg

1974年生まれ。都下在住。生きるということは「世界の解釈」、そのひとをそのひとたらしめるのは、その「世界の切り取り方」にあると思います。

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