第4章:時の「死角」~町田・大和・横浜での米軍機墜落事故~その1「厚木基地とは何か」
辺野古への移設問題で揺れる沖縄の普天間基地は、人口密集地域と隣り合っていることから「世界一危険な基地」とも呼ばれる。民家や学校スレスレに離発着する軍用機は、凄まじい騒音をもたらすとともに基地周辺の安全を脅かしているといわれ、2004年にはこの米軍海兵隊基地に所属する大型ヘリが近隣の沖縄国際大学に墜落する事故も起きている。
基地が密集する沖縄ならではの話、と口に出さずとも東京に住むひとは他人事のように思うかもしれない。
しかし首都圏にも、身近に基地が存在し、騒音、そして事故の危険性のなかで生活しているひとたちがいる。過去には民間人を巻き添えにした痛ましい墜落事故もあったが、そうした事実も時の流れに逆らえず風化の一途を辿っている。
「時の死角」に埋もれつつある、町田・大和・横浜で起きた米軍機墜落事故の現場を訪ねてみた。
幼き頃の記憶
私事だが、物心がつくかつかないかの頃、横浜に住んでいた。3歳前後の自分が見た景色は今となっては色褪せて真偽すら定かではないことも多いが、はっきりと覚えている出来事がひとつある。
同じ横浜で起きた、米軍機墜落事故────。
家から10数km離れた事故現場を見たわけではなく、きっとテレビなどで知った親が教えてくれただけだろう。しかし「身近で飛行機が落ちて、自分と同じぐらいの子供が死んだ」というニュースは、幼心に衝撃を与えたようだ。
1977年(昭和52年)9月27日火曜日、午後1時過ぎ。神奈川県下にある厚木基地を離陸したばかりの米軍機がエンジントラブルを起こし、横浜市緑区(現・青葉区)に墜落、周辺家屋が炎上。翌日、重度の火傷を負った3歳と1歳の男児の兄弟が死亡し、その母親も大火傷から一命を取り留めたものの4年後にこの世を去った。パイロットは墜落前に脱出し無事だった。
この「横浜米軍機墜落事故」については、自費出版を含め何冊かの書籍となり、また母子を襲った悲劇は『パパママバイバイ』と題した映画にもなったからご存知の方もいるかもしれない。
40年近く前の、私の記憶の片隅にあるこの事故について調べるためにこれら文献を手に取ってみた。そこで知ったのは、首都圏で起きた在日米軍機の事故の悲惨さ、さらに事故後に被害者を追い詰めた、米軍と日本政府を相手にした理不尽なまでの補償・賠償交渉についてだった。
■厚木基地周辺で起きた米軍機墜落事故
米軍機に関連した航空事故を調べるにあたっては、『米軍機墜落事故』(河口栄二著)が良き指南役となってくれた。1981年発刊と情報の古さは否めないが、事故後間もなく書かれている分、当時の様子や被害者の苦闘の有様はひときわの生々しさを放っていた。
こうした事故を全国規模でまとめた資料になかなか巡りあえなかったが、ウィキペディア「日本におけるアメリカ軍機事故の一覧」を見れば、おびただしい数の米軍機関連事故が起きていることが分かるだろう。
『米軍機墜落事故』では、上記の横浜米軍機墜落事故に加え、1964年(昭和39年)に相次いで発生した「町田米軍機墜落事故」と「大和米軍機墜落事故」の顛末が詳しく書かれている。
この3つの事故に共通するのは、
1)墜落機が厚木基地を離陸もしくは同基地を目指していたということ
2)東京と神奈川、首都圏内で発生しているということ
3)無辜の民間人から死傷者が出たということ
である。
それぞれの事故の各論に入る前に、まずは3つの事故を束ねる「厚木基地」について触れておきたい。
戦時に急造された厚木基地
東京都心からおよそ40km、都の南端・町田市からは直線で5km程度しか離れていない神奈川県中部にある厚木基地こと「厚木海軍飛行場」。その所在地は実は厚木市ではなく、他市を間に挟んで綾瀬市と大和市、海老名市となる(海上自衛隊のサイトによると「所在地の市町村名または誤解されないような所在地近くの著名な地名をつける」という原則に基づいた命名との説が有力という)。
基地面積の8割近くを占める綾瀬市のサイトによると、基地建設は1941年(昭和16年)にはじめられ、約500haもの広大な敷地に「相模野海軍航空隊」が設置されたとある。
この基地新設には、戦火の拡大に加え、日本を含む列強国の間で海軍の軍縮を取り決めた「ロンドン条約」が、1936年(昭和11年)末に期限満了を迎えたことが影響していたと、『海軍厚木航空基地』(岡本喬著)に記される。軍縮条約というタガが外れ、他国、特にアメリカとの海軍力の開きに焦燥した旧日本海軍が急造したのが厚木基地というわけだ(同書23ページ。なおこの本には、厳しい国の懐事情により陸・海軍間で予算の綱引きがあったこと、戦局から陸軍に予算が加重されるなかで海軍はやむなく航空軍備に限って拡充を要求したことなどが書かれている)。
1945年(昭和20年)、そのアメリカを筆頭とする連合国に日本は敗れた。連合国軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥が最初に降り立ったのがここ厚木基地だったという史実は有名である(その様子は、2012年のハリウッド映画『終戦のエンペラー』の冒頭で再現が試みられている)。
以後、厚木基地は米軍の管理下に置かれることになる。旧日本軍では海軍に属していた厚木は、一度米陸軍の管轄となり、飛行場としてではなく近隣の「キャンプ座間」の資材置き場として使われるなど、軍事施設としては重宝されていなかったようである。
それが1950年(昭和25年)の朝鮮戦争勃発をきっかけに、今度は米海軍の航空基地としての役割を担うことになり、荒れ果てた滑走路等が整備され、積極的に利用されることになった(海上自衛隊厚木基地のサイトより)。
空母艦載機の母基地へ
1971年(昭和46年)には海上自衛隊との共同使用が開始され、日米双方の「海軍の基地」となった厚木に、そのポジションを決定的なものとする出来事が訪れる。1973年(昭和48年)、同じ神奈川県の横須賀基地が、米海軍第7艦隊所属空母「ミッドウェー」の事実上の母港とされ、これ以降厚木基地は艦載機の母基地となったのだ。
「艦載機の母基地」とは何なのか。
それを知るためには、空母=航空母艦(aircraft carrier)の特徴に触れなければならない。
横須賀を母港とする空母はミッドウェーにはじまり、「インディペンデンス」「キティ・ホーク」、日本に初めて配備された原子力推進空母「ジョージ・ワシントン」、そして現在の「ロナルド・レーガン」へと連なる。
これら空母は、艦載機の発艦・着艦が行える平らな飛行甲板を持ち、武器・燃料の補給から兵士らの衣食住環境までを備えた「海上の移動基地」として配備されている。
軍事技術の粋を集めた、現代海軍の主要艦艇である空母には、入港中に艦載機の離発着ができないという欠点がある。船としての体躯こそ立派に見えるが、飛行場となれば滑走距離が十分ではない。現役のロナルド・レーガンでさえ全長は333mに過ぎないのだ。
そのため離陸(発艦)時にはカタパルトにより艦載機を強制的に「押し出して」やり、着艦する際はワイアーで「引っ掛けて」止めるという工夫がなされている。さらに空母自体が全速力で航行し、パイロットが飛び立てるような環境を整える必要がある。港に停泊している間は、これら環境が十分に保てず、つまり艦載機の出撃ができなくなり、軍事的空白が生じてしまうのである。
横須賀と厚木は「セット」
また空母には、離発着を安全に行えるよう、艦の進行方向に対して艦載機の着艦方向を傾ける「アングルド・デッキ」という構造が採用されており、艦前半は「発艦スペース」、後半は「着艦スペース」と分けられている。
飛行甲板を発艦と着艦で共有していた従来型と比べ、着艦失敗時に発艦機を巻き込む危険が減るとともに、仮に着艦が失敗しそうな場合、パイロットは再び全速力で機首を上げやり直しができるというのが利点とされる。
空母の艦載機パイロットには、こうした空母特有の事情に対応するための高い飛行技術が求められ、定期的に訓練を行うことが義務付けられている。陸上の滑走路を飛行甲板に見立てた「タッチ&ゴー」と呼ばれる訓練は、そのひとつである。
入港中の空母の軍事的機能不全を防ぐこと、そしてパイロットが「タッチ&ゴー」の訓練を行えること、それが「艦載機の母基地」に求められる要件なのだ。
空母の母港化は、艦載機のための「陸上基地」の確保と不可分の関係にある。横須賀と厚木は、常にセットとなって動いているのである。(『米軍機墜落事故』 33ページ)
何故、海の軍隊が内陸に基地を持っているのか。素人には理解しづらい様々な事情が今の厚木基地の背景にある。■ bg