平和運動とは「肯定する力を信じる」ということ〜ベッド・イン50周年〜

「ベッド・イン」という、何とも破廉恥なイマジネーションをかきたてる名のイベントがその昔あった。新婚の男女によるものときたのだからいよいよ想像はあっちの方にいってしまうが、さにあらず。イベントの狙いは、ベトナム戦争が激化していた時代にあって非暴力で平和を訴えること。その男女とは、世界的ロックスターのジョン・レノンと前衛芸術家ヨーコ・オノ。かの有名な「平和のためのベッド・イン(Bed-Ins for Peace)」は、いまからちょうど50年前の1969年の出来事だった。

ジョン・レノンとヨーコ・オノによる「ベッド・イン」の様子(「YES オノ・ヨーコ」展(2003年10月〜2004年12月)公式図録より)

ジョン・レノンとヨーコ・オノによる「ベッド・イン」の様子(「YES オノ・ヨーコ」展(2003年10月〜2004年12月)公式図録より)

ベッドに散りばめられたたくさんの「ピース」

この年の3月に結婚したばかりのレノンとオノは、ハネムーンを利用した“平和のためのパフォーマンス”を思いつく。「ベッド・イン」のネーミングは、座り込みで抗議する「シット・イン(Sit-In)」、人間中心というテーマで集う「ビー・イン(Human Being-In)」、死亡している状態を模倣して抗する「ダイ・イン(Die-In)」と、反戦機運の高まりから各所で展開されたイン=集会にちなんでいる。

レノンとオノは、オノの連れ子だったキョーコをともなってホテルに滞在し、報道陣や有名無名の人を寝室に招き入れては、ベッドの上でパジャマ姿でインタビューに応える、ということを、アムステルダムとモントリオールでそれぞれ1週間ずつ行った。この奇抜なアイディアのもとはオノとされ、実際、部屋の壁に飾られた「ヘア・ピース(髪の平和)」や「ベッド・ピース(ベッドの平和)」といった言葉は、それまでオノの作品に度々登場した「作品(ピース=piece)」から取られたものであることが容易に想像できる。

ビートルズのボーカル、ギタリストとしてのレノンについては説明のしようもないくらいの歴史的な事実だし、また今日におけるオノのアーティストとしての地位も然りなのだが、オノにとって「ベッド・イン」をはじめとするレノンとの数々の共作、あるいは私生活そのものは、とっつきにくい前衛芸術の世界から大衆文化への移行を意味していた。彼女は「ベッド・イン」において、スターでありパートナーであるレノンを媒介としながらメディアからの注目を集め、2人にとって切実な問題であった戦争の終結というテーマを、パジャマ姿で軽やかに、ユーモアたっぷりに、かつ明瞭に、そして平和裡に、打ち出すことに成功した。

「本当にポジティブだった」2人の出会い

オノ自身が2012年になってYouTubeで公開したドキュメンタリー『BED PEACE』を通じて当時の模様を見ることができる。決して広々としてはいない、むしろ狭苦しさすら感じる部屋には、花々や手書きのイラストが散りばめられ、まるで幼稚園の教室のような雰囲気のなか、時にスーツ姿のジャーナリストが、時にラジオのパーソナリティが、はたまたヨガの先生や女学生が、とにかくいろんな人々が押し寄せてはレノンとオノに質問を浴びせていく。

この映像でとても印象的だったのが、とある質問者が「モンスター(国家、政府)を相手に戦う」と口走った途端、オノがすかさず「モンスターと戦うのではないの。あなた自身の無知と戦うのよ」と力強くまくしたて、反論したところだ。とかく反戦にしろ反体制にしろ、何かに抗議するという行為においては、自分とは異なる立場の意見を敵視し攻撃的になりがちである。しかしオノやレノンは、敵対することを煽るのではなく、あくまでそこにいる人の内なる部分に問いかけるかたちで平和を実現しようとした。これはまさに、アーティストであるオノのスタイルそのものだったと言っていい。

2人の出会いは1966年、ロンドンはインディカ・ギャラリーでのオノの個展でというのはよく知られた話だ。インスタレーションのひとつ、床に置かれた梯子を昇ったレノンが、天井にある額縁に入った紙を覗き込む。そこには、虫眼鏡を通さないと読めないぐらいの小さな文字で「YES」と書かれてあった。それを見たレノンは後に「それは本当にポジティブ(肯定的、前向き)だった。気持ちが救われたよ」と語り、2人の仲が縮まっていく契機となったとされる。

オノの作品は、こうした投げかけをきっかけに見るものの内側に変化を促す。たった一語、「YES」という文字がレノンのなかに広がり、ある種の前向きな感情を醸成させたというエピソードと、「ベッド・イン」に見られる2人の平和運動には、「肯定する力を信じる」という共通のテーマを見つけることができる。

レノンとオノは同年12月、”WAR IS OVER! If You Want It – Happy Christmas From John and Yoko”という広告を世界各都市のビルボード、ポスター、新聞などで展開し、またも人々の耳目を引くことになる。「あなたさえ望めば、戦争は終わるのだ」というメッセージも、やはり、物事の起点はその人自身にあるという考えに根ざしている。

悲しい事件、突然の別れ

夫婦としての2人は、別居という冷却期間を挟みながら1975年に寄りを戻し、10月のレノンのバースデーその日に息子ショーンが誕生。レノンは主夫としての役割に目覚め、すべての時間を愛息の成長に捧げた。1980年、ショーンが5歳になったのをきっかけにレノンは音楽活動を再開。オノとの共作アルバムを発表した矢先、ニューヨークの自宅前でファンを名乗る男に射殺される。いまから39年前の12月8日に起きた、悲しい事件だった。

続く12月14日、オノは10分間の黙祷を捧げるよう呼びかけ、ニューヨークでは10万人もの人々が、自宅のダコタ・ハウスやそのすぐ近くのセントラル・パークに集まり、「ベッド・イン」の最中に完成、レコーディングされた『平和を我らに(Give Peace A Chance)』を歌った。

この黙祷に先立ち、オノが5歳のショーンと連名で出した声明文には、以下のような言葉が綴られていた。

あなたの涙と祈りに感謝します。
私にはジョンが空で微笑んでいるのが見えます。
私には悲しみが晴れていくのが見えます。
私には皆が心をひとつにするのが見えます。
ありがとう。

レノンは、こうしたオノのポジティブな面に心底惚れていたんだと思う。だから、40歳で突如、彼らが訴え続けた平和の正反対の方法で、想像もしていなかったかたちでこの世を去ることとなっても、空の上で、最愛の人からのメッセージに救われたんじゃないだろうか、と思うのだ。■bg

 

参考文献「YES オノ・ヨーコ」展(2003年10月〜2004年12月)公式図録

bg

1974年生まれ。都下在住。生きるということは「世界の解釈」、そのひとをそのひとたらしめるのは、その「世界の切り取り方」にあると思います。

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