第2章:都の西限、双子の明暗 ~ 横田基地と立川基地~その3「関東計画と基地行政の原型」
Jリーグやコンサートとなれば多くのひとで賑わいを見せる、東京・調布市にある味の素スタジアム(東京スタジアム)。およそ5万人を収容するこの競技場をはじめ、アメリカンフットボールなどが行われるフィールドや、現在建設中の屋内プールなどを擁する新しいスポーツ施設、さらには広々とした公園、大学など様々な機能が集約されたこのエリアは、その昔「関東村」と呼ばれていた。
村は村でも市町村の村ではない。1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催にともない、代々木にあった米軍宿舎が移設されてできた“アメリカン・ビレッジ”、関東村。日本に返還されたのは、今から40年以上前の1974年(昭和49年)12月のこと。それと引き換えに、横田基地は拡充の道を歩まされたのだった。
横田の運命を決定付けた「関東計画」
基地の街から中核都市へ ── 兄貴分の立川基地の転身ぶりとは対照的に、横田基地周辺は基地拡充の波に飲み込まれていった。
朝鮮戦争(1950〜1953年)で日本の軍事基地が暗躍したことはその2でも触れたが、横田も例外ではなく、極東空軍爆撃司令部の連隊が駐留し、B-29爆撃機や戦闘機が配置されるなど、アメリカを中心とする国連軍の主要基地として使われた。またこの時期に軍用機がジェット化・大型化されたことで、当初1300mだった滑走路は拡張され、その後10年の間に、滑走路も基地の規模も現在のものとなった。
基地拡大とともに軍用機の騒音も深刻な問題となった。1961年(昭和36年)には周辺の昭島市、福生町(後の福生市)、村山町(今の武蔵村山市)、砂川町(1963年に立川市へ編入)、瑞穂町の1市4町が「横田基地爆音対策協議会」を結成。その2年後には同協議会と保谷町(現在の西東京市)議会が、米軍のF105戦闘機の横田移駐反対を決議し東京都に要望書を提出するなど、基地を巡る周辺自治体と住民の戦いが続くことになる。
そんな中、1971年(昭和46年)に、戦闘機部隊が横田基地から移動となった。その行き先は、沖縄の嘉手納基地だった。
騒音の“親玉”だった戦闘機を、東京からおよそ1600kmも離れた沖縄に移したことで、横田周辺での騒音問題は(なくなりはせずとも)緩和され、基地の性格も兵站(へいたん)、すなわち物資や人員の輸送中継拠点へと変わっていった。ちょうどベトナム戦争が激化していた時期である(以上、『東京の米軍基地』2014年度版より)。
そして1973年(昭和48年)1月、横田の基地としてのポジションを決定付ける重要な発表がなされた。関東各所にあった米空軍施設を横田に整理統合する計画、いわゆる「関東計画」が日米間で合意されたのだ。
「関東計画」とは、「関東平野地域における施設・区域の整理・統合計画」(Kanto Plain Consolidation Plan)の通称とされ、以下の6つの基地・施設を日本に返還するかわり、横田に代替施設を建設するという内容だった。基地返還・整理をひとつのパッケージで行う先駆けとしても知られている。
<返還された基地・施設>
- 府中空軍施設の大部分(東京都府中市)
- キャンプ朝霞(南地区)の大部分(東京都練馬区、埼玉県朝霞市・和光市・新座市)
- 立川飛行場(大和空軍施設を含む)(東京都立川市・昭島市・東大和市)
- 関東村住宅地区(東京都府中市・調布市・三鷹市)
- ジョンソン飛行場住宅地区の大部分(埼玉県狭山市・入間市)
- 水戸対地射爆撃場(茨城県ひたちなか市・東海村)
関東計画は決定から5年あまりで達成を見るに至り、短期間のうちに代替の住宅や倉庫、事務所などが続々と横田基地に造られていった。その建設費用はすべて日本政府持ちで行われたというのだから、国の力の入れようは相当なものだった。
支出額は当初見込んでいた2倍近く、総額約450億円もの巨費が投じられたとされ(防衛省防衛研究所『戦史研究年報 第11号』「関東計画」の成り立ちについて 3ページ)、当時の防衛施設庁の単年度予算に匹敵する規模であった(『基地はなぜ沖縄に集中しているのか』 67ページ)。
関東計画は、そのスピード、予算規模からして、国家的なビッグプロジェクトだったことがうかがえる。
日米両国の思惑の一致
この関東計画の背景には、日米両政府それぞれの思惑が見え隠れしている。
まず日本政府としては、関東平野の都市化に対応するという大義名分があった。水戸対地射爆撃場を除けば、返還候補地は東京と埼玉の米軍基地ばかり。合計して約2219万平方mという茫洋たる土地が首都圏に突如出現するのだから、先の立川の例を見れば明らかな通り、都市問題解決への効果は十分期待できた。
さらに日本政府には、基地や日米安保体制への反対運動を抑え込むという目論見もあった。
1960年代後半には多くの基地問題が顕在化。特に1968年(昭和43年)は当たり年で、1月にはアメリカの原子力空母の佐世保入港で反対運動が起こり、5月になると原子力潜水艦が佐世保に入港する際、放射能測定値が異常値を示したことで騒ぎとなった。6月になると米軍F-4戦闘機が九州大学構内に墜落。これら立て続けに発生した問題は国会でも取り上げられ、同年8月の臨時国会では時の首相、佐藤栄作が「米軍基地が大都市周辺に多くあるため、とかく基地周辺住民に生活上の不安や危惧を与えていることを考え、政府としては、その不安や危惧を取り除くよう最善の努力を払ってまいります」と述べるに至っている(『戦史研究年報 第11号』「関東計画」の成り立ちについて 6〜7ページ)。
政府が恐れていたのは、目前に迫っていた日米安全保障条約の自動延長(いわゆる70年安保)への、反基地・反米運動の波及だった。かような状況下で、日本は在日米軍基地整理統合に本腰を入れて取り組むこととなった。
一方、日本のみならずアメリカ側にも在日米軍の整理統合を進めたい理由があった。1969年1月に共和党からリチャード・ニクソン大統領が誕生。泥沼化するベトナム戦争からの早期撤退を公約としていた彼は、その年の7月、海外でのアメリカ軍兵力削減を柱とする「ニクソン・ドクトリン」を表明していた。アメリカにとって、関東計画は渡りに船だったのだ。
日米それぞれの思惑が一致したかたちで両国は協議を重ね、関東計画は実行されることになった。
「基地行政の原型」交付金の投入
1978年(昭和53年)7月10日、キャンプ朝霞の返還をもって関東計画は完了した。各跡地には商業施設をはじめ学校などの文教施設や公園などが造られ、40年近く経った今では米軍施設の名残すら見つけるのが困難となった。
その一方で、返還された基地・施設の“身代わり”となった横田基地には、多くの軍機能が集約された。
当然のことながら周辺住民からの反対の声も大きくなりそうだが、これを抑えるためにとられたのが「基地行政の原型」、交付金の投入だった(『基地はなぜ沖縄に集中しているのか』 71ページ)。
戦後、日本政府は基地周辺対策を段階的に行ってきた。日本が主権を回復した翌年の1953年(昭和28年)、米軍の行為により生じた損失の補償を規定する「日本国に駐留するアメリカ合衆国軍隊等の行為による特別損失の補償に関する法律(特別損失補償法)」制定。1966年(昭和41年)には、防衛施設・区域の設置・運用に起因する様々な障害を地域全体で防止・軽減する施策として「防衛施設周辺の整備等に関する法律(周辺整備法)」が制定されていた。
さらなる助成を盛り込んだ「防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律」は、自衛隊や在日米軍などの防衛施設によって生じる周辺地域への障害を防止し、生活環境を整備するための法律で、防音工事の助成や日常生活上の騒音障害対策などが決められている。注目すべきは、この法律ができたのが1974年(昭和49年)だということ。関東計画の時期と一致するのは決して偶然ではない。
横田基地を抱える福生市は、関東計画の受け入れの条件として、破格の振興策を国に要求した。その額は当時の市の年間予算の15倍にも相当する468億円。この要求に対し、国は既存の法律では対応しきれないとして新たに「防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律」を制定するに至った(『基地はなぜ沖縄に集中しているのか』 72ページ)。
市の面積の30%以上を横田基地に提供している福生市の場合、こうした交付金額は周辺5市1町の中で最大となる。近年における市の一般会計予算は毎年220億円前後、このうち基地関連の「国有提供施設等所在市町村助成交付金」は6~7%を占め、額にして毎年14~16億円が国から支払われている。
この交付金は、使い道が定められていない経常一般財源となり、市の「交付金事業について」というページでは、例えば「特定防衛施設周辺整備調整交付金」により施設建設や維持、基金事業などにあてがわれていると説明されている。
国からの手厚い助成を受けることになった横田基地周辺自治体。現在、基地周辺で反対運動が起きているような雰囲気は感じられない。むしろ積極的に基地を受け入れ、活用するような気運さえあるのは、その1でも触れた通りだ。
「関東計画の前後で、反基地運動というのはだいぶ様変わりしました。戦闘機部隊がなくなったということと、幸い、横田基地では大きな事件・事故がないことから、基地というものをそれほど意識することはなくなったのです」(基地機能集約を受け入れた福生市の坂本副市長。『基地はなぜ沖縄に集中しているのか』 75ページ)
首都圏における一連の基地問題は、この関東計画を経て、大きな「死角と構造」の中にすっぽりと収まったのだった。■ bg
(続く)