タイタニックで生き延びるために

真夏の「タマサイ」こと「多摩サイクリングロード」にて。この年の夏はあまりの酷暑でしばらく走るのを断念した。(2018年/撮影=bg)

真夏の「タマサイ」こと「多摩サイクリングロード」にて。この年の夏はあまりの酷暑でしばらく走るのを断念した。(2018年/撮影=bg)

自転車に乗る目的

「目的」と「目標」───両者は似ているようで異なる意味を持つ。目的は「こうありたいという姿」、目標は「その目的を達成するための具体的な手段や指標」。

では、自転車に乗る目的は?
その答えは、「タイタニックで生き延びるため」。

1997年に封切られた映画『タイタニック』で、レオナルド・ディカプリオ扮する紅顔の風来坊ジャック・ドーソンは、ケイト・ウィンスレット演じるローズ・デウィット・ブケイターを連れ、愛する人を守らんと沈みゆく巨船を疾走する。

若い頃なら、そんなパニック&ラブロマンスのストーリーで胸熱になるだけでもよかったが、これが中年になってから再度観てみると、別のポイントが気になって仕方がなくなった。

「いや、いまオレあんなに走れないって」

1974年生まれのディカプリオとは同い年である。映画公開当時、彼も自分も(容姿から社会的立場までだいぶ差はあったけど)ともに20代前半の年若い男子だった。あれから20年経ち、レオ様のことはよく知らないが、自らの体力面での衰えを感じはじめて、「もしいまの自分がタイタニックに乗っていたら」と想像して、急に不安になった。

もちろん、タイタニックのような世紀の沈没事故に遭うことは稀だろう。
でも、何の前触れもなしに大惨事に遭遇することがあるんだということは、3.11を経験しているいまの日本人には十分に理解できるはずである。

緊急事態の時、家族や地域のなかで真っ先に「もうダメです」と白旗を掲げるわけにはいかない。
タイタニックで生き延びるためには、少なくとも、基礎的な一定の体力は維持し続けたいと思った。
そのために、ペダルを漕ぐ。いいアイディアじゃないか、と。

実は忌野清志郎も、同じような理由で自転車生活をはじめたという。『サイクリング・ブルース』では、「50代の転機」と題して、こんなくだりがある。

自分の暮らしのなかで、子どもの存在がどんどんでかくなっていって、「いざというときに自分の子を助けられるだけの体力をもたねば」と真剣に思い、再び自転車に乗り始めたのだ。

清志郎は50歳で、ということだったが、老年が視野に入ってくる中年というのは、こういう時期なのかもしれない。

目標は、2020年までに……

この目的を受けての目標は、「2020年までに、100km以上を走りきること」。

威張るほどの目標でもないことは承知の上。20代の頃には100kmぐらい走破していたし、それほど高いハードルでもない。
世の中には200kmや600kmを一気に走る「ブルベ」という自転車イベントもあるくらいだから、そんなのと比べたら100kmは散歩、あるいは足慣らし程度の距離なのも分かっている。

でも、自分のなかに道標を持つことは、目的を達成するには大切。誰に頼まれたわけでもないことなら、自由にやればいいだけの話だ。

ひとまず、2020年夏を目処に、東京都下の我が家から、友人が住む群馬県高崎まで走ってみる、そんなプランを立ててみた。

多摩サイクリングロードといっても1本道がずっと続くわけではない。河川敷や堤防、時には一般道を行き来しながらペダルを漕ぐことになる。(2018年/撮影=bg)

多摩サイクリングロードといっても1本道がずっと続くわけではない。河川敷や堤防、時には一般道を行き来しながらペダルを漕ぐことになる。(2018年/撮影=bg)

スウィート・ホーム・タマガワ

自転車は外で乗るものとは限らないのが、ロード乗りの世界だ。タイヤの下にローラー台を置いての室内練習なんていうこともめずらしくなく、最近はネットに繋いで他人とバーチャルにサイクリングやトレーニングを楽しむ「Zwift」なんていうものまであるらしい。

狭小住宅の我が家で、室内ローラー漕ぎなんてやったら、家族から途轍もないヒンシュクを買うのは目に見えている。
それに、せっかく景色や気候を楽しみながら移動できるんだから、外に出ないともったいない。

まずは子供の頃から親しんできた近所の「多摩川サイクリングロード」をホームに、週末を使って走ることにした。

自転車乗りには「タマサイ」の名で知られる多摩川サイクリングロードだが、その名前は通称で正式名ではなく、さらに、すべて1本道で繋がっているわけでもない。関東を流れる全長約140kmの一級河川・多摩川の最下流である羽田から、東京都西部の羽村までの約50kmの両岸に、自転車や歩行者が通れる道があるだけで、自転車専用道路でもない。

20代の頃、川崎まで多摩川を下り東京湾フェリーで木更津に渡って館山を目指したこともあって、海へと向かうタマサイの「東側」には馴染みがあったのだが、「西側」はほどんど走ったことがなかった。

いい機会だと思い、この冬、タマサイ歴30数年にして初めて西側の終点まで走ってみた。そこには「これが同じ多摩川か」というぐらいの発見が待ち受けていた。

雪化粧した富士山が顔を出す。(2018年/撮影=bg)

雪化粧した富士山が顔を出す。(2018年/撮影=bg)

自転車を通じて出会う、知らなかったこと、新たな発見

東側と違うのは、真正面に連なる山々の存在感だ。国立でいったん河川敷を外れた後、再び堤防へ戻るためのちょっとした坂を駆け上がると、目の前がパッと開け、雪化粧した富士山が視界に入ってくる。

手元のメーターの心拍数が「7」ほど上がったが、このうち登坂の影響は4、残り3は気持ちが高ぶった分だと勝手に思いながらペダルを漕ぎ続けると、奥秩父山塊がどんどん大きく感じられるようになる。東京都最高峰の雲取山や三頭山、山梨の大菩薩嶺など、以前登山で訪れた山も見える。

河原に目を転じれば、下流よりも蛇行した水の流れがあり、長い間に水で削られ縞模様がついた荒々しい岩や鬱蒼とした茂みなど、自然豊かな光景に出くわすのも西側の特徴だ。

終戦直後に起きた「八高線列車正面衝突事故」を後世に伝えるモニュメント。(2018年/撮影=bg)

終戦直後に起きた「八高線列車正面衝突事故」を後世に伝えるモニュメント。(2018年/撮影=bg)

路肩に錆びた電車の車輪が飾られているので何かと思えば、終戦直後の1945年8月24日に多摩川橋梁で起きた「八高線列車正面衝突事故」を後世に伝えるためのモニュメントだった。100人以上が亡くなったという大惨事のことなど、この道を通るまで知らなかった。

かつて江戸市中に水を供給していた玉川上水の取水口である羽村取水堰を越えると、タマサイも終わりに近い。終点には阿蘇神社があり、地の利(?)を活かした自転車乗り向けのお守りを手に入れてみたりした。

堤防を行き来したりする際に小さな上り下りはあれど、比較的穏やかな多摩川と並走するので上っている感じはない。ほとんどフラットかと思っていたが、メーター上の標高差は80m程度あった。往復距離にして50〜60km。基本的に自動車との混走もなければ信号もないので、軽く汗を流すには最適な練習道である。

タマサイに来ると、帰ってきたという感じがする。
そして、まだまだ知らないこと、新たな発見がある。
多摩に住んでよかったと思える場所。マイ・スウィート・ホームだ。■bg

多摩サイクリングロードの西の終着点「阿蘇神社」。自転車乗りのためのお守りもある。(2018年/撮影=bg)

多摩サイクリングロードの西の終着点「阿蘇神社」。自転車乗りのためのお守りもある。(2018年/撮影=bg)

bg

1974年生まれ。都下在住。生きるということは「世界の解釈」、そのひとをそのひとたらしめるのは、その「世界の切り取り方」にあると思います。

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