第2章:都の西限、双子の明暗 ~ 横田基地と立川基地~その2「基地の街から中核都市へ ── 立川の転身」

2015年暮れに「ららぽーと立川立飛」が立川市内にオープン。約9万4000平方mという広々とした敷地に250店舗を擁する、西東京を代表する巨大ショッピングセンターとして注目を集めている。

ところで、この「立飛(たちひ)」という聞きなれないネーミングが何に由来しているのか、どれほどのひとが知っているだろうか。この大型商業施設のみならず、最寄りの多摩モノレールの駅名にも周囲の看板にも、いたるところに見られる「立飛」の名前は、ここがかつて「基地の街」であったことを、ひっそりと今に伝えている証人のようなものである。

2015年12月にオープンした「ららぽーと立川立飛」(撮影=bg)

2015年12月にオープンした「ららぽーと立川立飛」(撮影=bg)

立川と横田、「基地の街」としてのはじまり

横田基地も立川基地も、旧日本陸軍の施設として造られたのがはじまりとされる。その歴史を紐解くために、その1「国道16号線のアメリカ」でも触れた『軍隊と住民─立川・横田基地裁判を中心に』(榎本信行著/日本評論社)から情報を引いてみたい。

立川基地こと「立川飛行場」は、1922年(大正11年)11月、陸軍飛行第五大隊の立川移駐をきっかけに設置された。折しも第一次世界大戦(1914~1918年)で航空兵器の重要性が認識された時期であり、帝都防衛を目的に当時の東京府の西部に建設されたのがはじまりとされる。

そもそも何故この地域に飛行場が置かれたのか。榎本前掲書によると、立川が選ばれた6つの理由が次のように挙げられている。

(1)将来、飛行場を拡張する場合、土地の接収が容易であること
(2)交通の便に恵まれていること
(3)物資輸送の条件が整っていること
(4)他候補地に比べ、水利、水質がよいこと
(5)土地が平坦で広大なこと
(6)立ち退きが少ないこと(民家二戸、避病院一戸)
(同書17ページ)

飛行場開設当時の立川は、立川駅周辺を除けば、山林原野が広がる武蔵野の一角に過ぎなかった。立川は立地条件に恵まれた場所だったのだ(大正時代の立川飛行場の航空写真が立川市のウェブサイトで紹介されている。スペース的にだいぶ余裕があったことが確認できる)。

立川に飛行場ができると、人口が増え、経済活動が盛んになった。1921年(大正10年)には810世帯、人口4772人の「北多摩郡立川村」が、飛行場関係者が続々と移り住みはじめると2年後には6895人に増加し「北多摩郡立川町」になった。そして1940年には3万5000人に達し市制が施行され、東京の第三の都市にまで成長した。

当初は軍民共用の飛行場であった立川は、羽田飛行場の開設(1931年)、さらに戦争の広がりとともに軍事利用に一本化。中島飛行機株式会社(戦後解体され富士重工業株式会社などに発展)、昭和飛行機工業株式会社(今も輸送機器製造事業などを手がける企業として存続)などの軍需工場が周囲に続々と建てられ、そこで働くひとが居を構えはじめた。

立飛企業(元立川飛行機)株式会社発祥の地に建つ石碑。多摩モノレール「高松駅」近くにある。(撮影=bg)

立飛企業(元立川飛行機)株式会社発祥の地に建つ石碑。多摩モノレール「高松駅」近くにある。(撮影=bg)

そのなかにあったのが「立川飛行機株式会社」だった。
同社の前身である石川島飛行機製作所(現・株式会社IHI)は、1924年(大正13年)に飛行機の設計、制作、販売を目的に中央区月島で設立され、その6年後に立川へ移転、やがて名を立川飛行機と改めた。陸軍向けに軍用制式機「九五式一型練習機」(赤トンボ)や、中島飛行機からの転換生産である一式戦闘機「隼」(キ-43Ⅲ型乙)など、終戦まで1万機弱の飛行機を製造。最盛期には4万2000人余りの従業員が働いていたという。
現在は立飛ホールディングスとして、不動産賃貸業を中核とする事業を展開。冒頭で触れた「ららぽーと立川立飛」の「立飛」のオリジンは立川飛行機にあったのだ(以上、同社のウェブサイトより)。

満州事変(1931年~)、日中戦争(1937年~)、太平洋戦争(1941年~)と戦争が長期化・拡大するにつれて、陸軍航空も海軍航空と競い合うように強化・拡充が図られ、「軍都」立川も広がりを見せていった。

立川基地の付属施設として約4km西に造られたのが「多摩陸軍飛行場」、のちに横田基地となる場所だ。日米開戦前夜の1940年(昭和15年)4月のことだった。

■敗戦から米軍基地へ

1945年(昭和20年)8月に日本の敗戦が決すると、早くも9月には立川も横田も米軍に接収されることとなった。

先の『軍隊と住民』には、当時の様子が次のように紹介されている。

八月二八日、連合軍先遣部隊が厚木飛行場に到着、ついで同三〇日には連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木に到着した。戦前からの軍事基地である立川飛行場には、九月三日から四日にかけて、ジープやトラックに分乗したアメリカ軍機動部隊が、厚木から八王子を経由して、多摩川の橋を渡って進駐してきた。九月六日、陸軍多摩飛行場にも米軍が進駐した。<中略>こうして多摩地区の軍用施設はすべて米軍に占領、接収された。(同書30ページ)

戦争が終わり、日本からアメリカの手に渡っても、立川と横田は基地の街としての運命を背負わされ続けた。立川基地は「FEAMCOM(Far East Air Material Command)/フィンカム」と呼ばれ、GIが闊歩する街へと変貌。戦後に半減したという市の人口は毎年5000人程度ずつ増加し、基地労務者に加え、米軍兵士たちを相手にした赤線地帯には多くの女性たちが集まり、混沌としたコミュニティが形成されていった。

かつての立川基地の滑走路は、現在、陸上自衛隊立川駐屯地として使われている。大規模災害発生時の広域防災基地というユニークな機能を持ち、近年では東日本大震災や鬼怒川決壊災害でも派遣を行っている。(撮影=bg)

かつての立川基地の滑走路は、現在、陸上自衛隊立川駐屯地として使われている。大規模災害発生時の広域防災基地というユニークな機能を持ち、近年では東日本大震災や鬼怒川決壊災害でも派遣を行っている。(撮影=bg)

そんな折、1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争は、日本の軍事基地の様相を一変させる出来事となった。それまで日本の軍事力を解体するつもりだったアメリカは、反共政策を推し進めるがために、一転して日本にある基地を積極的に活用しはじめ、立川基地は極東最大の輸送基地として暗躍した。

こうした国際情勢を受けたアメリカ外交・軍事政策の変更にともない、立川・横田両基地も拡張が進められようとしていた。このうち立川基地の滑走路拡張計画に対し、地元住民が激しい反対運動をはじめた。これが世に言う「砂川闘争」である。

「砂川闘争」の果てに

陸上自衛隊立川駐屯地の真北に位置する砂川地区。かつての砂川闘争の舞台には、立川基地が返還されてもなお農地が広がっており、その精神が受け継がれていることをうかがわせる。(撮影=bg)

陸上自衛隊立川駐屯地の真北に位置する砂川地区。かつての砂川闘争の舞台には、立川基地が返還されてもなお農地が広がっており、その精神が受け継がれていることをうかがわせる。(撮影=bg)

1955年(昭和30年)、在日米軍施設の対応にあたっていた東京調達局は、立川基地拡張計画を発表。その内容は、在日米軍の重搭載用輸送機およびジェット機発着のため、従来の1650mの滑走路を2100mに拡張し、さらにその北端に120mの航空障害物制限区域を設けるというものだった。拡張予定面積は11万6000平方m、航空障害物制限区域6万6000平方m。拡張の暁には、立川基地はアジア太平洋地域における軍用機のターミナルとなるはずだった(榎本前掲書63〜64ページ)。

基地の北側は、当時立川市ではなく「砂川町」と呼ばれ、農家が軒を連ねていた。砂川の住民にとって基地拡張は、140戸におよぶ宅地や家屋に加え、生活の糧をもたらす農地までも失ってしまうことを意味していた。基地拡張反対運動はこうした農家を中心に興った。しかし当初「生活権の擁護」に軸足を置いていた砂川闘争は、やがてビキニ水爆実験などに端を発する原水爆禁止運動などと足並みを揃え、「平和運動」へと質を変えていったという(榎本前掲書71ページ)。全国的に広がった連帯が、運動に拍車をかけていった(当時の反対運動の様子を伝える写真が立川市のウェブサイトにあるが、至近距離で航空機が飛んでいるのが分かる)。

五日市街道沿いにひっそりと立てられる、砂川闘争ゆかりの地を説明するボード。基地へ向かう道「団結横丁」や、運動の拠点となった「団結小屋」などが紹介されている。(撮影=bg)

五日市街道沿いにひっそりと立てられる、砂川闘争ゆかりの地を説明するボード。基地へ向かう道「団結横丁」や、運動の拠点となった「団結小屋」などが紹介されている。(撮影=bg)

一方、何としても基地拡張を進めようとする東京調達局(つまり日米両政府)は、強制測量に踏み切ろうとした。この際、反対派のデモ隊の一部が立川基地内に侵入したとして起訴され、「砂川事件」として法廷論争にまで持ち込まれた。1963年(昭和38年)に最高裁判所判決をもって有罪が確定したのだが、この激しい反対運動の結果、立川基地は拡張はおろか存続すら難しい状況に追い込まれていったのも事実だった。

1969年(昭和44年)、米空軍基地であった立川基地での飛行業務が停止された。そして1977年(昭和52年)11月、日米両政府の協議の末、立川基地は32年にわたる米軍基地としての歴史にピリオドを打ち、日本に全面返還された。

■都下の中核都市として

立川市と昭島市に広がる南北2km、東西2.5km、面積約466ヘクタールという広大な跡地をどう活用していくか。国、都、立川・昭島両市を巻き込んで、立川飛行場返還国有地の処理が検討された。この結果、国営昭和記念公園という「大規模公園」と、陸上自衛隊立川駐屯地や東京消防庁などが集まる「広域防災エリア」、そして立川駅近辺の「商業エリア」が設定され再開発が進められていった。

今もなお各所でビル建設が続く立川駅。2016年夏には大型複合施設「立川タクロス」(写真奥)も開業する。(撮影=bg)

今もなお各所でビル建設が続く立川駅。2016年夏には大型複合施設「立川タクロス」(写真奥)も開業する。(撮影=bg)

1995年(平成7年)、東京圏の過密問題を解決するための法律「多極分散型国土形成促進法」(1988年制定)の「業務核都市」として八王子市と立川市の名前が挙がり、国土庁(現在の国土交通省)などがこの基本構想を承認。これにより数々の国の機関などが立川に移転され、立川は中核都市として拡大を続けた。

現在の立川市の人口は17万9000人。「昼間人口指数」は多摩地域にある26市中トップを誇る。これは通勤や通学で訪れるひとの方が、そこに住んでいるひとより多いことを意味している。

基地返還後に商業エリアとして再開発された立川駅北口にあるオフィス・ショッピング街「ファーレ立川」。街角には北川フラムのディレクションによるパブリックアートが配され憩いの場としても親しまれている。(撮影=bg)

基地返還後に商業エリアとして再開発された立川駅北口にあるオフィス・ショッピング街「ファーレ立川」。街角には北川フラムのディレクションによるパブリックアートが配され憩いの場としても親しまれている。(撮影=bg)

南北に走るモノレールの整備は進み、2014年4月に開業した「IKEA立川」「ららぽーと立川立飛」といった大規模商業施設も続々と出店。現在もなお各所でビルの建設が続けられており、2016年夏には立川駅の隣に高さ約130mの大型施設「立川タクロス」のオープンも控えている。
活況を呈する立川駅は、1日当たりの乗降客数が10年で1割増と、都心の新宿駅や渋谷駅より増加率が大きくなった(『日経ビジネス』2014年12月29日号より)。

かつての「基地の街」立川は、都下の中核都市に華麗なる転身を遂げたのだった。■ bg

(続く)

bg

1974年生まれ。都下在住。生きるということは「世界の解釈」、そのひとをそのひとたらしめるのは、その「世界の切り取り方」にあると思います。

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