about kenya & masai mara

東京からケニアの首都ナイロビまで1万1270km。成田を発ち、香港、ドバイを経由し、ナイロビに着いてから国内線に乗り継いでようやくマサイ・マラに到着する。トランジットを含めた所要時間は30時間以上だった。

東京からケニアの首都ナイロビまで1万1270km。成田を発ち、香港、ドバイを経由し、ナイロビに着いてから国内線に乗り継いでようやくマサイ・マラに到着する。トランジットを含めた所要時間は30時間以上だった。

10億人超が住む大陸、アフリカ

六大州のひとつで、ヨーロッパの南方に位置する大陸がアフリカ(africa/阿弗利加)。面積3026万平方kmで、アジアに次いで2番目に大きく、地球の全地表の20%を占める。53カ国に、10億人を超えるひとたちが住んでいるという。

紀元前3000年頃、ナイル川周辺に古代エジプト文明が興ったことはご存知の通り。近世では多くの国がヨーロッパ諸国の植民地となったが、第二次世界大戦後に続々と独立していった。

人類は地球の「裂け目」から生まれた

アフリカ大陸東側には、「グレート・リフト・バレー(great rift valley/大地溝帯)」と呼ばれる、南北に走る地球の裂け目がある。将来、アフリカ大陸はここを境にして分裂するといわれている、総延長5000km以上の巨大なキャズムだ。

アフリカが人類誕生の地ということは通説だが、このグレート・リフト・バレーがあったからこそヒトが生まれたという説もまた知られている。

アフリカ東部を南北に走る「グレート・リフト・バレー:大地溝帯)」。大地を東西に引き裂こうとする強大な地球のパワーが、人類誕生のきっかけをつくったという。

アフリカ東部を南北に走る「グレート・リフト・バレー:大地溝帯)」。大地を東西に引き裂こうとする強大な地球のパワーが、人類誕生のきっかけをつくったという。

地球内部のマントルの上昇流が地殻を押し上げ、持ち上げられた地殻が高原と化した。それまでアフリカ中央部の気候は、インド洋からの湿った空気により降水量が豊富で熱帯雨林が広がっていたが、リフト・バレーが形成された後は高原が湿度を奪い、大陸内部で乾燥化・サバンナ化が進行した。

サバンナが広まると、それまで鬱蒼としていた樹木もまばらになり、木と木の間を行き来していた我々ホモ・サピエンス(homo sapiens)の祖先は、地面に降りて移動しなければならなくなった。これが、二足歩行を促すきっかけとなったという。現にリフト・バレー周辺では多くの化石が発見されており、人類に縁のある場所であったことは間違いないようだ。

東アフリカの代表国、ケニア

グレート・リフト・バレーの通り道にある一国、ケニア(republic of kenya:ケニア共和国)。赤道直下に位置する、東アフリカの代表的な国で、日本の約1.5倍、58.3万平方kmの国土に、さまざまな民族からなる4500万の人々が暮らしている。首都はナイロビ(nairobi)で人口約290万人。

東アフリカの玄関、ケニアとその周辺。面積は日本の約1.5倍、58万2646平方km。首都ナイロビ(南緯2度、東経37度)はインド洋から500km程内陸に入った海抜約1700mの高原に位置。マサイ・マラ国立保護区は南部のタンザニア国境に沿ってある。

東アフリカの玄関、ケニアとその周辺。面積は日本の約1.5倍、58万2646平方km。首都ナイロビ(南緯2度、東経37度)はインド洋から500km程内陸に入った海抜約1700mの高原に位置。マサイ・マラ国立保護区は南部のタンザニア国境に沿ってある。

イギリス植民地から1963年に独立し、共和制をしいている。非同盟外交を標榜しているが、イギリスなど欧米諸国とのパイプは太いという。近年争いの絶えない周辺諸国から難民を受け入れたり、和平調停などに積極的に関与する、東アフリカで中心的な役割を担う国だ。

スワヒリ語が国語だが、公用語として英語が話されているため、少なくとも観光客が訪れるような場所なら言葉に不安はない。通貨は「ケニア・シリング(KES)」。産業面では、コーヒーやお茶などの農産物が中心となる。

北部は国土の5分の3を占める砂漠地帯で、人口の85%はまとまった降水量がある南部に集中する。東西では1500m前後の標高差がある。

 

マサイ・マラ国立保護区。国内でも随一の野生動物の多さを誇る草原地帯で、観光客をひきつけてやまない。ムパタ・サファリ・クラブは保護区の外、北部のオロロロの丘にあり、オロロロ・ゲートから保護区に入る。

マサイ・マラ国立保護区。国内でも随一の野生動物の多さを誇る草原地帯で、観光客をひきつけてやまない。ムパタ・サファリ・クラブは保護区の外、北部のオロロロの丘にあり、オロロロ・ゲートから保護区に入る。

動物天国、マサイ・マラ

「マサイ・マラ国立保護区(the masai mara national reserve)」は、ケニア南西部、タンザニア国境沿いに位置する、グレート・リフト・バレーに近い約1600平方kmの自然保護区。国が管理する国立公園ではなく、地方自治体(ここでは州)により運営されるのが国立保護区だ。人気の観光エリアとして貴重な収入源となっている。

標高1700m前後の高原に大草原が広がる。タンザニアのセレンゲティ国立公園とともに生態系を形成、両地域を150万頭ものヌー(wildebeest)やシマウマ(zebra)が季節ごとに移動する「グレート・マイグレーション」は世界的に有名なイベントだ。動物たちは、マラ川の水がもたらす肥沃な「マラ・トライアングル」に集う。

ケニアでも随一の野生動物が住む地域で、ライオン(lion)やチーター(cheetah)をはじめ、バッファロー(buffalo)、ゾウ(elephant)、サイ(rhinoceros)、ハイエナ(hyena)、キリン(giraffe)、カバ(hippopotamus)、トピ(topi)、インパラ(impala)、ガゼル(gazelle)、シマウマ(zebra)、イボイノシシ(warthog)、ハゲワシ(vulture)、ダチョウ(ostrich)などなど、実に多くの肉食・草食動物、鳥類を目撃することができる。

 

かつて戦士、いまは……マサイ族

マサイ・マラのマサイとは、当然「マサイ族(maasaiもしくはmasai)」に由来する。ケニア南部からタンザニアの広範囲にかけての「マサイ・ランド」に棲み、牛や山羊の放牧を営む半定住の半遊牧民の原住民。ケニア、タンザニア国境を自由に行き来することが認められている。

伝説によると、マサイ族の起源は現在のケニア北部トゥルカナ湖周辺にあったとされる。現在のマサイ・ランドは、ケニア南部からタンザニア北部にかけて広がり、マサイの人々は自由に国境を行き来しているという。

伝説によると、マサイ族の起源は現在のケニア北部トゥルカナ湖周辺にあったとされる。現在のマサイ・ランドは、ケニア南部からタンザニア北部にかけて広がり、マサイの人々は自由に国境を行き来しているという。

マサイにはたしかな歴史が残っていないが、「断崖登攀」という伝説にマサイの起源が求められるという。
昔々、マサイの土地は火口原のような、急な崖に囲まれたところにあった(現在の北部トゥルカナ湖周辺と推測される)。旱魃に苦しむようになったため、巨大な掛け橋をかけて脱出を試みたが、半数が渡り切ったところで橋は崩れた。崖下の人々を残し、脱出に成功したものたちは緑豊かな下界へと旅立ち、多民族を武力で次々と倒し勢力を南へと拡大していった。

マサイは、多民族のみならず、マサイ同士でも激しい抗争を繰り広げ、滅んだ支族もいたという。マサイを戦士と称するのはそのためだ。
くしくもケニアがイギリスの植民地となったことで抗争は沈静化。いまでは都市に出たり近代化を受け入れる人々もいるというが、それでも昔ながらの暮らしを続けようとしている。

マサイにとって牛は何よりも大切な財だ。泥棒など罪を犯した場合は牛を差し出すなど、細かいマサイの規律が守られている。一方で、学校に通い言葉を習得し、観光客をガイドする「観光マサイ」としての顔も持ち、そうしたマサイにはツアーを通じて会うことができる。またドライブ中にマサイ・マラ内外で民族衣装に身を包んだ彼らと遭遇することもある。

*情報は2005年当時のものをベースとしており、その後変更されている場合があります。