自由に泳ぎ続けるということ〜ヴォルフガング・ティルマンス「Freischwimmer」から20年〜
それは、ティルマンスからはじまった
咋2024年は、東京オペラシティで開かれたヴォルフガング・ティルマンス「Freischwimmer(フライシュヴィマー)」展からちょうど20年という、個人的にも感慨深い節目の年だった。
現代写真においてティルマンスほど著名な表現者もいないだろうけど、説明するのがこれほど難しいひともめずらしい。いや、まずは現代写真がなんたるかを語るのも自分の手には余るのだが、とにかく「写真とは何か、これからどうなるのか」という問いを最初に投げかけてくれたのが、ティルマンスだった。
写真とは何か?
「まことを、うつす」と書いて「写真」と、「photo=光の、graph=描写」からなる「photograph」。両者を比較するとだいぶニュアンスが異なることに気がつく。ティルマンスを取り上げる前に、写真とは何かについて、いま一度整理する必要がある。
キュレーターの深川雅文は、写真という言葉についてこう記している。
「写真」という言葉のもとを辿ると、司馬江漢(江戸時代の絵師・蘭学者一七四七 一八一八)などが遠近法やカメラ・オブスクラを知って、西洋画法は日本の画法と全然違う、その本質は「真を写さしむ」だと言った。 <中略> そこで生まれた「写真」という言葉が、フォトグラフィーが実際に入ってくるなかで一人歩きしていく。写す人と写されるものの関係を画像に定着するという「写真」が一般的な概念として広まっていった。
後藤繁雄、港千尋、深川雅文(編)(2019)『現代写真アート原論 「コンテンポラリーアートとしての写真」の進化形へ』フィルムアート社
絵画も写真も事物の描写という点では同じだが、写真はありのまま、そっくりに写し得るということ。そこでは被写体自体が「真かどうか」は別の問題として立ち上がるものであり、写真は一種の画法として捉えられていた。写真における真実性がクローズアップされたのは、20世紀に入り『LIFE』に代表されるグラフ誌が誕生してからだという。
写真が社会インフラに組み込まれた「インフラグラムの時代」
「真を写さしむ」という写真の特徴はいまもって健在であるが、時は20世紀後半から21世紀に移り、デジタル技術により誰もが容易に撮影、加工、公開できる時代となると様相が大きく変わることになる。
1990年代半ばから急激に普及した携帯電話(ガラケー)、その“おまけ機能”に過ぎなかったカメラは、スマートフォンになっていっそう性能を上げ、瞬く間にフィルムを現像する銀塩カメラはもちろん、デジタルカメラ自体も市場のメインの座から降ろしてしまった。
さらにカメラは生活の隅々にまで行き渡るようになった。スマートフォンの顔認証をはじめ、街中や車窓からの映像は日々記録され、Googleは世界中の街並みを撮影して地図として公開している。カメラ機能と写真、映像がこれだけ民主化したことはなかった。
こうした状況を、写真家の港千尋は前掲の『現代写真アート原論』で「インフラグラムの時代」としている。もはや写真や映像は社会インフラとして組み込まれているということだ。
全ては等価である──ティルマンスの「等価性」
これだけ膨大なデータがストックされ、日々消費される時代となれば、写真自体の定義も大きく変わるもの。特に写真家として活動し、その作品を市場で高値で流通させるためには、たんに美しいとか、決定的瞬間であるとかいった要素だけではことが足らなくなってきている。
誰もが認める価値を生成すること──ティルマンスをはじめとする現代写真家が切り開いている写真の可能性は、写真をそれたらしめる「メタ情報」の構築に見出すことができる。
ティルマンスの作品で語られる「等価性」というモチーフは、そのメタ的アプローチのなかでも特筆すべきものだ。
1968年に西ドイツで生まれた彼の幼少期の趣味は天体観測だったことは有名で、金環日食を扱った『Truth Study Center』、またその延長線上には空飛ぶ超音速旅客機を撮った『Concorde』など、作品にその影響が見られる。
天体的な視点からすれば全ては等価である──天体少年だった彼が編み出した「アストロノーミック」という考え。俯瞰的な見方のみならず、見る方と見られる方、具象と抽象、作品の大小、映し出されるモノ同士の関係性といったものを、全て等しく扱うというものだ。
コップに生けられた花、窓辺に無造作に置かれる野菜、皺々の服、ひとの背中や耳──何気ない日常を写しているようで、その何気なさには、見るものに「何気ない」と思わせる工夫が隠されている。
それは撮る側からの独善的な「世界の押し付け」ではなく、彼自身が見る側と同じ感覚を丁寧に探しているからこそできる表現だ。対峙ではなく等価、「あれとこれ」ではなく「あれもこれも」、つまりモダンではなくポストモダンな姿勢で、既成概念を優しく、しかし大胆に壊していく。
美学は政治的──ティルマンスの「政治性」
等価性に並ぶティルマンスのユニークな点が「政治性」である。
美術評論家の清水穣は、ティルマンスがゲイであることをカムアウトしていることについて、こう指摘している。
カムアウトしたゲイとして活動してるわけだから、自分にとっての「自然」が他人にとってはスキャンダラスだということは最初からある。だけど、彼の政治とのかかわり方でおもしろいと思うのは、「sameness(セイムネス)」ということです。
ただしその際「同じであること」の対立概念は「アイデンティティー」なんですよ。たとえば、「あなたはゲイです。私はヘテロです。みんなお互い違う人間なんだから、その差異を大切にしあおうよ」という考え。これは彼にとってはむしろ敵視すべきことだと思うんです。
この言い方というのは、いわば領分を守ってお互いを干渉しないってことですよね。それは逆に言うと、「あなたはホモでけっこうです。私はそうじゃないし、あなたに関心はありません。私的なことを持ち込まないでください」って話になるわけ。
でも、カムアウトすることがすごく政治的なのは、「あなたのその線引きはやめてほしい」ということですよ。プライバシーとオフィシャル、われわれが自然に前提としているもの、アイデンティティーによる棲み分けの思想、そういった輪郭をほどかせるということなんですね。だから彼のセイムネスって、じつはかなりスキャンダラスだと思う。対談 清水穣×後藤繁雄「見る」行為と写真のポストモダン 『美術手帖』2004年11月号
たしかにティルマンスは、セクシャリティや環境、国際問題など政治的な話題に目を向け、SNSなどを通じて積極的に発信している。しかし、世界情勢の動き、人々の心の機微や危機感といったものを直接的に表現しているかといえばそうではない。伝えたいメッセージ自体を作品のなかに内包し、我々が自然と思っていたことの輪郭をあぶり出し、その境界線を壊していっているのだ。
政治性について、ティルマンス自身はこう言及している。
実際のところ、私は、美学は政治的であり、プライベートな生活も政治的であると信じています。
そして美にまつわるアイデアは、決してニュートラルではありません。例えば、二人の男性がキスしている写真は、誰にとってもそれほど美しいものではないし、意味を持つものでもありません。ところが二人の男がスクリーンで殺し合いをしていれば、それを多くの人が完璧に受け入れてしまう。それがまさに、私たちは何を受け入れ、何に美を見るのかという、政治を明確にする問いなのです。ヴォルフガング・ティルマンス (著)、美術手帖編集部(編)(2014)『Wolfgang Tillmans ヴォルフガング・ティルマンス』 美術出版社
とかく政治的であることが「分断」を生じさせる昨今において、撮る側も撮られる側も「全ては等価」という考えには、ある種の救いがないだろうか。
Freischwimmer=自由に泳ぐひと、自由に生きるひと
世界を見ること、世界から見られること、いま何が起きていて、何が自然とされ、何が大切なのかということ。
こうした眼差しを維持し続けるためには、曇りのない目と、しなやかでありながら相当な強度を持つ信念、何にも属さないという独立心がなければならない。
2004年の個展名である「Freischwimmer(フライシュヴィマー)」とは、ドイツ語で「自由に泳ぐひと、自由に生きるひと」という意味だ。
Swimming away into freedom, swimming into independence.
あれから20年が過ぎ、実に彼にふさわしいタイトルだということにあらためて気がつく。新しい年のはじまりにこそ思い出しておきたい、素晴らしい言葉だ。■bg
reference
『現代写真アート原論 「コンテンポラリーアートとしての写真」の進化形へ』フィルムアート社
『美術手帖』2004年11月号 美術出版社
『Wolfgang Tillmans ヴォルフガング・ティルマンス』 美術出版社
ヴォルフガング・ティルマンス展「Freischwimmer」