正義って何かね?〜阿佐ヶ谷スパイダース『さらば黄昏』

小劇場ならではの近さ
阿佐ヶ谷スパイダースの2年ぶりの新作公演『さらば黄昏』を観劇したのは去る2025年11月のことだった。
会場は、お馴染みの下北沢というロケーションながら個人的には初めての「小劇場 楽園」。階段降りて入ってびっくりの狭さ。100席弱というキャパシティは窮屈といえば窮屈だが、同じアサスパの『少女とガソリン』を観た「ザ・スズナリ」の最前列で体育座りした時よりも格段に快適。何より演者に手が届くほどの、息遣いが感じられる距離感がいい。舞台はこうでなくては。
この日、この時、この場所でしか味わえない「アウラ」に身を投じることができることが舞台芸術の最大の魅力。仮にオンライン配信で観ることができても、モニター越しでは知覚し得ないヴァイブスに満ちているのが小屋という場所。だからこそ、そこで掴んだ何かを、一度自分のフィルターを通して言語化しておきたくなる。
特にアサスパの場合は、観劇後に自分で「余白」を埋める必要がある作品が多く、その場で浮遊していたものを言葉で固着させる試みは十分に楽しい。舞台はこうでなくては。
正義をテーマにした『さらば黄昏』
『さらば黄昏』は、「正義とは、正しいこととは何か」という、大仰かつシンプルな大義をテーマとしており、アサスパの他の演目と比べてもだいぶとっつきやすい印象。何しろ前作の『ジャイアンツ』は、得体の知れない巨大な目が登場するなど奇想天外に過ぎて、余白の埋めがいが大いにあったのだから。
山に囲まれた過疎の村、踊田(おどりだ)地区の駐在所に勤務する竹井大(中村まこと)が主人公。彼は正義感あふれるひとの良さそうなお巡りさんで、村の外から来た余所者である。間もなく定年を迎え、北海道に引っ越し学校の用務員として第二の人生を送ろうとしていた。
そんな折、この村で起きたある事件の犯人が出所するという不穏なニュースが舞い込む。その事件で拳銃を発砲した竹井は、刑期を終え出所してきた男・犬塚への警戒から北海道行きを延期し、村人に自警のための結束を呼びかける。ちょうどひき逃げ未遂や投石など、良からぬ出来事が相次いでいた矢先だった。
しかし、村人たちも一枚岩とはならなかった。むしろそれぞれが抱える過去に縛られ苦しむもの、また部外者の竹井を邪魔に思う向きもおり、なかには竹井を「セイロン(正論)人」と揶揄するひともいた。
犬塚やその弟たちを歓迎せずとも排除もせず、一緒にまちづくりに加わってもらえれば治安は守られる。そう訴える竹井に賛同するのはごく一部。議論は平行線を辿り物別れに終わると思われたが、意外な人物の意外な行動で事態は大きく変わるのだった。

突破口を開いた意外な人物
その意外な人物とは、阪本慎平(中山祐一朗)。犬塚とは信頼関係を築いていたとされる人物だが、別に悪ぶっているわけでもなく、どこかおどおどし、気が弱そうで、はっきりはものを言わないタイプだ。阪本は事件当時、犬塚が何をするかを知っていながら何もしなかった。そんな阪本を、「安全なところを渡りあるく賢くてずるいひと」と評する村人もいた。だが、その阪本こそが事態の突破口を開く。
約2時間の劇は、しばらく経った後、竹井が北海道に旅立ち、踊田にはある種の平穏な日々が訪れていると思しきシーンで締め括られる。
阪本が実際に何をしたのかは劇中で触れられていないのだが、最後に「ありがとう」と言われていることからも、おそらくヒロイックなことだと推察でき、阪本のおかげで犬塚との一件が決着したことをうかがわせる。感謝の言葉を口にしたのは本町一恵(李千鶴)。事件の被害者家族で、阪本を「ずるいひと」と見ていたそのひとだ。
遡って劇の冒頭、犬塚の出所の情報を竹井に話した際に「ここから逃げた方がいい」と勧めたのも阪本だった。
竹井には竹井なりの正義があったが、地味で目立たない阪本にも阪本なりの正しさがあったのだろう。
教科書の正義、葛藤の末の正義
『さらば黄昏』のパンフレットのなかで、脚本を書いた長塚圭史は、幼少期に観た西部劇からインスパイアされた部分があったと語っている。
あの頃よく観た映画の中で主人公たちが言ってることっていうのが、なんて言うかな、すごく真っ当なんだよね。今の世の中において、その真っ当さってどこ行っちゃったんだろうな、っていうことを思う。西部劇をいろいろ観直してみたら、こういうものって今もうみんな興味ないのかなと、なんかふっと思ったんだよね。今まさにこう、社会が正しさのようなものを問うている時に、別に社会派っていう風な気持ちじゃなくて、自分の記憶の中のそういうものを携えて、作品を作れないかなと思ったんだよね。
社会の価値がコンプライアンス、つまり法やルールに基礎づけられているといっても過言ではない昨今、正しさへコミットすることが歓迎されているはずなのに、「真っ当さ」が見当たらないとすればおかしなことだ。
ここでいう「真っ当」を「正しさ」と読み替えれば、この劇で交錯した竹井と阪本の正しさは、みなが平穏に暮らせるコミュニティを目指した点で一致していたはずだ。しかし竹井の正しさはどこか紋切り調で教科書的な印象を与えるものだった。誰もが正論と思えることを言っているからこそついた渾名が「セイロン人」なのだ。
一方で阪本の正しさは、同じ地域のなかで様々な試行錯誤と葛藤の末にようやく行き着いた感じを受けた。本当はこうした方がいいのは分かっている、だけどそれが難しい。
タイトルの意味を考える
どちらの正しさも、どこかで共振、共鳴したからこそ、踊田に平穏が訪れる結末を迎えることができた。実際、阪本の思いに気づいた瞬間、竹井はこう口走っている。
「……そりゃそうだ……そりゃそうだろう。何をひとりヨガって、カッコつけて思い込んで、セイロン野郎がペラペラと。そりゃそうだよ。そりゃそうじゃないか。阪本さんはだって、そうだろう」
戯曲集には、竹井の台詞のなかに次の注釈も添えられている。
「笑って自分を卑下しているがそれはどこか感動とか感激のようなものにも見える」
駐在所を去った竹井は、新たな人生をスタートさせるにふさわしい発見をした。黄昏ている場合ではない、ということがタイトルに込められた意味だったのではないか。
多様性が尊ばれる現代、正義も多様になったがゆえに、誰もが頷ける真っ当さが希薄になった。ただ、正しさは忘れられたわけではない。正しさを正しくぶつけ合うことで、希望が生まれる。そういうことなのではないか。■bg
