第1章:日米安保の基礎知識

アメリカの“武力の傘の下”での戦後史

国家の安全保障(national security)とは、「国外からの攻撃や侵略に対して国家の安全を保障すること。またその体制」と定義される。日本における安全保障は、アメリカとの二国間条約である日米安全保障条約(正式名称「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」)を中心に国内法体系が整備されていることは周知の通りである。

敗戦から1年しか経っていない占領下の1946年(昭和21年)、「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」を掲げる新憲法に移行した“かつての軍国”日本は、1951年(昭和26年)の独立と同時にアメリカと安全保障条約を結んだ。日本の戦後復興は、ほんの数年前まで敵国だった世界最大の軍事力を誇る同盟国アメリカの“武力の傘の下”に入ることで達成されたといっても過言ではない。それはすなわち、アメリカのアジア・太平洋地域での軍事戦略の影響をもろに受けてきたことを意味する。

戦後70年目の2015年夏、安倍晋三・自民党政権が成立を目指す安全保障法案は国会で審議中だ。歴代の政権が違憲としてきた集団的自衛権の行使を、憲法の解釈を変えることで認めようとする政府のやり方に批判も集まっているが、日米同盟の歴史を少しでも紐解いてみれば、憲法や法体系に独自の「解釈」を与えることは、何もいまにはじまったことではないということが分かるだろう。

日米同盟の軌跡と関連する世界情勢

60年以上も続く日米同盟

1945年(昭和20年)8月15日、昭和天皇がポツダム宣言受諾・連合国への降伏を国民に伝え敗戦(終戦)を迎えた日本は、アメリカをはじめイギリス、オーストラリアなどで構成される連合国軍の占領下に置かれた。早くも翌年秋には日本国憲法が公布され、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を基本原則に掲げる日本国がかたちづくられることになる。

敗戦から6年後の1951年(昭和26年)、日本と連合国諸国は、「日本国との平和条約」(世に言う「サンフランシスコ講和条約」)を結び、正式に戦争状態を終結させることで合意、翌年から日本は独立国として再出発することになった。
この講和条約と同日にかわされたのが、いわゆる旧安保(正式には「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」)で、日本独立後もアメリカだけは引き続き軍隊を駐留できるという枠組みはこの時つくられた。

以後、1960年(昭和35年)に締約された現行の新安保条約を含め、60年以上もの間日米安保はこの国の安全保障を担ってきた。

旧安保条約では、日本の防衛義務はなかった

『在日米軍』(梅林宏道著/岩波新書)によると、旧安保条約は独立国間の安全保障条約として以下のような欠陥があったという。

米軍の日本防衛義務の明記がないこと、国連との関係が明確でないこと(日本の国連加盟は一九五六年十二月)、日本の要請による、内乱への米軍の介入が明記されていること、行政協定が米軍の著しい特権を認めていること、などである。かつ条約は、米軍の維持を「暫定措置」と前文に記していた。
(『在日米軍』27ページ)

何しろ時は朝鮮戦争(1950~1953年)の真っ只中。日本を共産主義国に対する砦として使おうとするアメリカの狙いも理解できる。また一方で、不安定な周辺事態のなかで、まだ脆弱な敗戦国が独立すること自体に現実的な問題もあったはずであり、混乱期に急場をしのぐためにも日米双方にとって必要な条約だったという見方もできるだろう。

新安保条約でも、アメリカの特権的立場は維持

1960年(昭和35年)1月に新安保条約が締約され旧安保は失効したのだが、軍隊駐留などアメリカに特権的な立場を認める性格は引き継がれた。

前文と10条からなる新安保のうち、ポイントとなる箇所を挙げてみる。
まずは第1条「関係国際紛争の平和的解決等」には、本条約は国際連合憲章の定めるところの武力の不行使を前提としており、防衛的性格が与えられていることが宣言されている。これは日本国憲法第9条をはじめ、自衛隊の基本戦略である「専守防衛」にも通じる基本的な考えだ。

次に第3条「防衛力の増強」。日米両国が各々の防衛能力を維持発展させることが書かれているものの、これはあくまで「憲法上の規定に従うことを条件として」認められているに過ぎない。いうまでもなく日本国憲法第9条では、武力による威嚇・武力行使を永久放棄すること、陸海空軍その他の戦力を持たず、国の交戦権を認めないとある。憲法の枠のなかで日本は安全保障上何ができるのか。集団的自衛権や改憲論にもつながる部分だ。

さらに第4条「協議」には、「日本国の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威」とあるように、日本の領域のみならず極東という広い(かつ曖昧な)エリアをカバーしていることが記されている。日本は、休戦後の朝鮮半島情勢、ソ連や中国といった共産主義陣営に対抗する砦として、また1960年代のベトナム戦争は「日本の基地なしにはなし得なかった戦争」(『在日米軍』43ページ)といわれるほど、後方支援基地として在日米軍基地が暗躍した。冷戦時、アメリカの軍事戦略において在日米軍が果たしてきた役割は決して小さくなかったのだ。

日米安保から日米地位協定、安保特例法へ

日本の領域内での共同防衛を宣言しているのが第5条「防衛」。そして第6条「合衆国軍隊に対する施設及び区域の提供」では、安保目的のため、アメリカ軍が日本に基地を置けることが定められ、その詳しい取り決めは別途行政協定である「日米地位協定」(正式名「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」)により規律されている。

ざっくりいえば、日米安保条約とは、アメリカと日本が一緒に日本と極東エリアを防衛することを前提に、アメリカは日本に基地を置いてよいという約束事である。その細目は日米地位協定で定め、さらに様々な関連国内法、いわゆる「安保特例法」がこの条約を支えているのである。

なお日米安保は第10条「有効期間」において、10年間効力を存続した後、つまり1970年からは、どちらかが通告すればその1年後には終了させることができるようになっている。つまりその気になればいつでもやめられるわけだ。

米軍駐留のあり方を定めた「日米地位協定」

日米安保条約第6条にもとづき、アメリカは日本が提供する「基地」に軍隊を駐留させている。その駐留のあり方を定めたのが日米地位協定『在日米軍基地の収支決算』(前田哲男著/ちくま新書)によるところの「安保条約の実施細則をぎっしり詰めこんだ“基地運用マニュアル”」(同書158ページ)である。

全28条からなるこの協定の大まかな内容が『在日米軍基地の〜』に記載されているので以下に引用する。

◯アメリカ軍が日本国内で基地の使用を許される権利(第二条)
◯アメリカ側が基地管理に必要なすべての措置をとることができる権利(第三条)
◯基地返還時に元通りにして返す(原状回復)のを免除される権利(第四条)
◯アメリカ軍航空機・艦艇が日本の空港・港湾に出入りし使用する権利(第五条)
◯アメリカ軍人・家族の自由な出入国と関税、検疫および民事・刑事責任の特別扱いを受ける権利(第九条、第十七条、第十八条)
◯駐留経費の負担に関して日米双方が受け持つ基準(第二十四条)
◯日米合同委員会で、必要とされる日本国内の米軍基地を決定する権限(第二十五条)
(『在日米軍基地の収支決算』158ページ)

ところで、安保条約の運用は誰が行っているのか。地位協定第25条には「日米合同委員会」を設置することが書かれており、この組織が協議機関となる。構成メンバーは、外務省のサイトによれば、日本側代表は外務省北米局長が務め、法務省大臣官房長、財務省大臣官房審議官らの下にいくつもの委員会がぶら下がる。アメリカ側は在日米軍司令部副司令官をトップに、在日米大使館公使や在日米軍司令部第五部長など在日米軍の面々が連なる。委員会の名は時々にメディアに載れど、一般には馴染みのない組織である。

どこにでも基地が置ける「全土基地方式」

不平等と悪名をはせる日米地位協定だが、問題とされる箇所の筆頭は、どこに基地や施設を置くのか具体的に明文化されていない点だろう。
第2条「施設及び区域の許与、決定、返還、特殊使用」では、米軍に提供される「施設及び区域」はあらかじめ特定されていない。言い換えれば日本のどこにでも基地が置けるわけで、「全土基地方式」と呼ばれる所以はここにある。なお現時点での在日米軍の施設と区域別一覧は防衛省のサイトを参照されたい。「〜基地」という名前が見当たらないのは、基地問題への配慮からだろう。

さらに第17条「刑事裁判権」もことあるごとに俎上に載せられる問題だ。アメリカ軍人等が公務中に事件や事故を起こした場合、裁判権はアメリカ側にあるが、公務外だと日本側が裁判権を有する。しかし後者のケースであっても、身柄がアメリカ側にある時は、日本側が起訴するまでアメリカ側が身柄を拘束できる。被疑者が基地内に逃げ込んだら、証拠隠滅やアリバイ工作もできる上に、最悪の場合アメリカに帰国させることすら可能であり、実際そのようなケースは枚挙にいとまがないという。

沖縄県警は「米軍構成員等及び一般外国人検挙状況」をサイト上で公開(*)しているが、沖縄の本土復帰後から2014年までの42年間、米軍構成員等が関わる検挙件数は5800件超。以前より減少はしたものの、依然一定の件数で推移している(*2016年4月7日付でページ消滅を確認)。

地位協定の問題はまだある。基地が返還されてもアメリカに原状回復義務はないため、兵器等による深刻な汚染がされている場合でも汚されたまま返されることもあり得るということ。
さらに基地の外でも、その場が突如として治外法権エリアになることもあるということも見過ごせない。2004年にアメリカ海兵隊のヘリコプターが沖縄国際大学に墜落した際には、日本の警察や行政、大学関係者がアメリカ軍によって現場から締め出されたという出来事もあった。(YouTube「沖縄:ヘリ墜落から10年」)

アメリカに多くの特権を認めているこの日米地位協定。在日米軍基地の多くを抱える沖縄県は、継続的に日米政府に協定の見直しを働きかけている。1960年に締結されて以来、この協定は一字一句変わらぬまま現在に至っている。

“法的に払わなくてもいい経費”、思いやり予算

日米安保体制を維持するためのおカネでは、俗にいう「思いやり予算」に触れないわけにはいかない。
日米地位協定の第24条「経費の分担」によれば、日本側の義務は基地や港などの場所を提供する部分に関して責任を持つと規定されており、アメリカはその他の維持経費(隊舎の新設費用や基地従業員への労務費、米軍人等の住宅建設や光熱水費など)を受け持つとされている。

アメリカ側の経費を、法的に支払う義務のない日本が肩代わりするのが「思いやり予算」という“風習”で、1978年の金丸信防衛庁長官(当時)時代から知られるようになった。

日米安保条約・地位協定締結から20年近く経ち、日本側の負担が増えた背景には、アメリカ側の圧力があったとされる。
前掲『在日米軍基地の収支決算』によると、1967年の佐藤(首相)・ジョンソン(大統領)会談で沖縄返還が「両3年以内の施政権返還」として合意されてから、アメリカから地位協定を逸脱した経費負担の要求が強くなった。沖縄返還というカードをカネで買うような印象を避けたかった日本政府は、アメリカとの密約とういカタチで一部経費負担を受け入れ、これを機に、これまでの協定で定められた“割り勘原則”のバランスが崩れはじめたとされる。

当初日本側の負担は、老朽化した隊舎改築費など「施設設備費」に留まっていたが、1976年から78年にかけて拡大が顕著になり、基地従業員の賃金=「労務費」の一部負担までがアメリカから要求されるようになった。
時はドル安・円高時代、ドル建て運用の在日米軍は財政的に厳しくなっており、さらにベトナム戦争後の「ニクソン・ドクトリン」(アジアからの地上兵力撤退政策)で軍事予算の見直しも行われていた。

そんなアメリカを「思いやる」とした、極めて日本的な配慮を感じる「思いやり予算」は、あくまで俗称であり臨時的措置であったが、1987年には「在日米軍駐留経費負担特別協定」が締結され、その後は恒常化された。

『日米安保Q&A 「普天間問題」を考えるために』(「世界」編集部編/岩波ブックレット)には、1978年に62億円ではじまったこの経費は、1991年に基地内の「光熱水料」までも含まれるようになり2000億円を突破、1995年には2714億円に達したとある。
アメリカは「ホスト・ネーション・サポート(=HNS/接受国による駐留受け入れ支援)という安全保障上の応分の負担金」と捉え、予算廃止には否定的だったものの、財政難から削減を求めた日本側の要求で2009年度に1928億円、翌年度には1881億円と2000億円を切るレベルに抑えられるようになる(以上、同書41ページ)。なおその推移は防衛省・自衛隊サイト「在日米軍駐留経費負担の推移」に詳しい。

アメリカは日本のHNSをどう思っているのか。前掲書『在日米軍』では、米国防省「アジア太平洋戦略の枠組み」から次のような部分が引用されている。

日本は、他の同盟国に比較してずば抜けて多額の受け入れ国支援をしている。1990会計年度の場合、33億ドル以上になる。日本の多額の支援のおかげで、米軍を配備するのに、日本は米国内も含めて世界でもっとも安上がりの場所になっている。(1992年7月)(『在日米軍』41ページ)

特別協定による負担も、また「在日米軍の駐留に関する経費」、沖縄県民の負担を軽減するため「SACO関係経費」、さらには米軍再編事業のうち地元の負担軽減等に資する措置に係る「米軍再編関係経費」も、年間数百億円以上が日本国民の税金で賄われている。

冷戦後の安保条約の再定義、そしてガイドライン

20世紀も終わりに近づき、日米安保体制が確立して以来日米の“敵“として存在してきた東側の共産諸国が相次いで倒れ、親玉のソ連も1991年に解体された。「反共軍事同盟」という役割を終えた日米安保条約は、その条文や地位協定を一文字も変えることなく、時代に合わせて新しい解釈がなされることになった。

その集大成が、1996年4月に来日した当時のクリントン米大統領と橋本龍太郎首相による「日米安保共同宣言」とされる。冷戦下の日米安保の主目的は「日米間・極東の防衛」に置かれていたが、これを「アジア太平洋地域の平和と安定」にまで裾野を広げ、同盟関係を強化することが確認された。この日米安保条約の“焼き直し”が、その後の「ガイドライン改定」や「周辺事態法」そして現在審議中の安保法案へとつながり、アメリカとの協調、連携強化が進むのである。

「ガイドライン」こと「日米防衛協力のための指針」は、1978年と1997年に策定され、2015年4月には18年ぶりに見直された。

日米安保条約の締約後しばらくはアメリカの軍事力が日本のそれを凌駕していたが、自衛隊が力をつけてくると、いよいよ日米両軍の具体的な協力態勢が求められるようになった。それまでは日米が共同で軍事行動を起こすための具体的な取り決めがなかったのである。
これを受けてまとめられた最初のガイドライン(78指針)では、「日本への侵略を未然に防止する態勢、日本に対する武力攻撃に際しての作戦構想や指揮・調整、情報活動、後方支援活動などの対処行動等についての基本的な事項」が明記された(『日米安保Q&A 〜』47ページ)。この時期の前後に、冷戦後半の象徴的な装備とされる「F15戦闘機」「P3C対潜哨戒機」の調達決定や、日米間の部隊レベルでの共同訓練・演習がはじめられるようになったという。

これに対し1997年のガイドライン(97指針)の中核をなすのは「周辺事態の協力」。周辺事態とは「そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態」と定義される。要は北朝鮮のような国が日本に何らかの有事をもたらす可能性を考慮し、日米両国がその対処法を決めておこうということである。

このガイドラインをもとに、「周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律」、通称「周辺事態法」などの国内の関連法が続々と整備されていった。周辺事態法では、周辺事態時にアメリカ軍の後方支援をどのように行うかが具体的に定められており、日米の軍事面での親密度(日本がアメリカに寄り添うカタチでの)がいっそう増すことになった。

集団的自衛権の行使容認、アメリカ軍への後方支援を地球規模に

2015年4月27日、日米両政府はニューヨークで日米安全保障協議委員会(いわゆる2プラス2)を開き、ガイドラインの改定に合意した。他国を武力で守る集団的自衛権の行使に加え、アメリカ軍への後方支援を地球規模にまで拡大するという大胆な改定に、内外の注目が集まった。

安倍首相は同年4月30日、日本の首相として、アメリカ議会上下両院の合同会議では初めてとなる演説を行い、日米の蜜月ぶりをアピールした。親密度を増す日米関係の背景には、いまや大国となった中国を牽制する意味があるとされる。実際この安倍訪米と前後するあたりから、中国による南シナ海での人工島建設が内外のメディアで取り上げられ、アメリカをはじめ各国が懸念を表明。日本はまたしてもアメリカ側の“砦”として役割を果たそうとしているかに見える。

そして、安保法案審議中の第189回国会である。国会の前に既にアメリカと協調を約束してきた安倍政権は、武力攻撃事態法改正案をはじめ、周辺事態法改正案(重要影響事態法案)、国連平和維持活動(PKO)協力法改正案など改正案10本を「平和安全法制整備法案」として一括。国会の事前承認があればいつでも自衛隊を紛争地に派遣できる「国際平和支援法案」とともに成立を目指している。
日米同盟は、新たな局面に足を踏み入れようとしている。■ bg

【参考文献】

bg

1974年生まれ。都下在住。生きるということは「世界の解釈」、そのひとをそのひとたらしめるのは、その「世界の切り取り方」にあると思います。

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